こんにちは!
mikaです。
今回はあるお話から……
ひとりの若者が真理を探るために家を出ました。
彼は川岸に住むグルのところへ行き、その老人に言いました。
「どうか先生、私をあなたの傍において下さい。あなたから真理を学びたいのです」
グルは許可しました。
そこで彼はグルの衣服を洗い、食事を作り、その他のどんな必要なことにも老師のために働きました。
五年経って、彼は老師に言いました。
「私は五年間あなたと一緒に過ごしました。しかし真理が何なのかまだ判りません。そしてあなたからは何も学べませんでした。もしお差し支えなければ私はあなたの元を去りたい。多分、別の師を見つけ、真理についてもっと学べると思います」
『一向に構わないよ』と老師は言う。
『行きなさい』
そこでその若者は去って行って何人かのグルを見つけ、そのグルから色々な魔術を教わったのです。
更に五年が過ぎて、彼は最初の老師のことを思い出し、彼の許を訪ねます。
『で、何を教わったのかね』と老師。
以前の弟子は熱い炭の上を歩くことができること、空中浮遊ができることなどを告げます。
『それが全部かね』と老師は尋ねる。
若者は目の前の川を指差し、誇らしげに言う。
「私はまた川の上を歩いて対岸まで行けます」
『それを習うのに五年もかかったの?』と老師は大声で言いました。
『あそこに、五〇メートル先に、ニペンスで横断できる渡し舟があるではないか』
他人が思うその真理に染まった男性を軽く揶揄したお話でした。
— 真理は学ぶものじゃない —
他人から真理は学べない。
それがたとえ、優れた著名な宗教家からであろうとも。
なぜなら、それを証明するものを自分は本当に知らないからです。
「それを信じる」ということは、私達はなんの根拠もないことを、ただ概念や観念で信じるということです。
なのでその人を、その象徴を信じ崇拝しても、不安や恐怖が本当にすっかり消え去ることはないでしょう?
真理とは、なにかの修行を終えたからといって見えてくるものではありません。
そういうことで得られるものがあるとしたら、それは自分に集中ができたということ。
それは悪いことではないので、それはそれでいいのですが、それが真理かといえば違います。
困難な中で集中できた人=真理を知ってる人 ではありません。
本当に本当の宗教の意味を理解されている方は、神様を、真理を、外には探されません。
自分達の日常の中で、毎日実際に生きていく中で、何が真理なのかを自分で見つける。
常に客観的で、何事にも冷静さを失わないくらい驚かないでいることができれば、それは誰であっても自然と見えてくるものだから。
なぜならば、真理は他人の中にある他人が知ってるものではなく、自分の中にあるものだからです。
真理には入門も秘伝も方法もないのです。
なので、もし皆さんが真理を知りたいと思われるのであれば、他を探さないようにして下さいね。
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