神々の履歴書 第8回 続々 京都の神様と旧約聖書 「諏訪大社と松尾大社—託宣する少年」

こんにちは。サイキックリーダー&クリスタルセラピストのマユリです。

古代の習慣が残存した日本

当時の日本人が格別残酷だったわけではありません。
古代において生贄は広く行われていた行為でした。

メソポタミアでは、イナンナの聖婚というのがあり、王に選ばれた男が、女神の夫として殺されたといわれています。
また、旧約聖書にも、戦勝祈願で「最初にであったものを生贄に捧げると神に誓願をたてた将軍が、泣く泣く娘を生贄に捧げる話」がでてきます。
ギリシア神話にも、トロイ戦争時に、長期の凪で出航できなかったギリシア軍が、王の娘を女神アルテミスに捧げて出航します。
まるで、国家のために身内を生贄として捧げることが、王たるものの義務であるかのごとくです。
ケルト文化も多くの生贄を捧げていたといわれていますし、中国の殷もおびただしい生贄をささげていました。
生贄は古代の文化的常識だったのでしょう。

けれども、紀元前3世紀の秦の始皇帝の墓には、生身の人骨ではなく兵馬俑が埋められています。
旧約聖書が、編纂されたのも紀元前4・5世紀といわれており、そのころには、ユーラシア大陸には「生贄は不要な慣習である」というコンセンサスが生まれていたのでしょう。
そういう意味では、人類はメンタルにも進化しているといえるかもしれません。

その後、キリスト教文化圏では、「イサクの犠牲」の話が、ケルトやゲルマンの生贄の習慣をやめさせるのに多大な貢献をしたことは想像に難くありません。
「生贄を要求するような神は神ではなく、悪魔である」との論理で、徹底して糾弾したことでしょう。
自分の子供や、自分自身が生贄になりたい人なんていませんから、この点で、聖書の貢献は素晴らしいものがあったのです。

神仏混交の日本では、仏教伝来とともに、生贄は減りはしたでしょうが、キリスト教のように徹底して古代宗教を糾弾しませんから、実際には戦国時代くらいまで、あちこちで行われていたように思います。

いいえ、江戸時代以降も、司法の届かない地方で、密かに行われていたのではないでしょうか。
そういうビジョンを見たことがあるのです。

 

託宣する少年―そして、少年は神になった

ある霊媒体質の女性が、不眠と体調不良に悩まされてこられた時のことです。
そこは、ある大学の寮でした。

「毎晩、わたしの頭の上の、壁をコツコツとたたく音がする……壁の向こうは、屋上への非常階段で施錠されており、夜中人がいるとは考えにくく、気味が悪い……」といって、こられました。
いわゆる幽霊話です。

石を置くと、中学生くらいの少年があらわれ、「自分は、花壇の下に埋められている、弟は食堂の下に埋まっている」と告げました。現代ならば殺人事件ですが、もちろん時効はとっくに過ぎています。
その「埋められ方」がたいへん奇妙なのです。
大きい四角い溝を掘って、そこに子供の骨をおいていきます。
骨と骨は赤いひもで繋がれていて、堀全体を骨でつなぐように置いていき、溝を骨で一周したのです。
こんな奇妙な光景は初めて見ましたが、何か呪術であることは間違いありません。

少年は、もともと病気だったようですが、手厚く看病されていました。
ある日、枕か布のようなもので、鼻と口をふさがれて窒息死させられます。
犯人は父親です。
表向きは病死なので、傷がつかないようにそうしたみたいです。

なぜ彼は殺されたのでしょうか? それにしても、あの儀式はなんなのでしょうか?

この話は、続きがあります。
死んでそれで終わりではないのです。
死んだあと、彼は神となって(幽霊となってというべきかもしれません)託宣をしているのです。
もうひとり、幼児もいます。彼の兄弟で、同じように両親に殺されたとのことです。
いまでいうチャネラーのような人が大勢いて、二人は彼らへの託宣で大忙しです。

生贄にされて、彼は託宣する神になったのです。

「弟は幼いので、嬉々として託宣をしている。僕は、できればほかの形で親孝行がしたかった。」と彼は言いました。

彼らには、姉妹もいたようですが、殺されることはなかったようです。
このビジョンは関東の方のセッションで出てきたので、男の子を生贄にする風習のあるところ、例えば諏訪神社と関連しているのかもしれません。