人の役に立ちたい!〜批判覚悟で素朴な疑問。なぜ、そのように考えるのか


「人の役に立ちたい」と思うことが当たり前だと思っている人が多い。でも、「人の役に立ちたい」と思うことの裏に潜む落とし穴がある。それは、幼少期の記憶によるものだ。

《人の役に立ちたい!》


「人の役に立ちたい」と思っている人は、たくさんいると思います。

今日は、批判覚悟で、敢えてここに、素朴な疑問を投げかけます。



では、なぜ、そのように考えるのでしょうか。

「当たり前だ」
「人は一人では生きていけない」

「生きがいになる」
「必要とされる人間にならないといけない」

「義務」



ふざけた質問だとお怒りになるかもしれません。
親、学校、職場、マスメディア、ネットでも、「人に貢献しなさい」「苦しんでいる人に手を差し伸べなさい」「役に立つ人になれ」と大合唱されるなか、このように思うのが普通なのかも知れません。

ヨーロッパで古くから伝わる『ノーブレスオブリージュ』の精神のように、「社会的地位のある者は義務と責任を果たすべし」という心(と言っても記憶に過ぎません)から、純粋に、「人の役に立ちたい」と思うことは素晴らしいと思います。

 

《幼少期の記憶が原因》



しかし、過去の記憶から「人の役に立ちたい」と思っているなら、一度立ち止まって見直す必要があると思うのです。

特に、幼少期の記憶です。

お母さんから

「もっと気遣いをしなさい」
「他人がどうして欲しいのか一歩先んじて考えなさい」
「もっと役に立つ人間になりなさい」



お父さんから
「お前はダメな人間だ」
「役に立たない」

「世間が認める人間たれ」
と言われて育った人は、自分の価値を得ようとして、「人の役に立ちたい」「人の役に立たなけゃ」と無意識に思ってしまうのです。

心の奥底から出た気持ちではないので、つまり、本当にしたいことではないので、力が入り過ぎて、最後は空回りして、疲れ切ってしまうのです。

何年に一度か、落ち込んだり、爆発したりするのは、このためです。

 

《生きているだけで価値がある》



わたしは、かつて世界的なボランティア団体の理事長を9年間していました。
アフリカの最貧国にも出向きました。数千万円の寄付もいたしました。
わたしがやったことは素晴らしいことだと思いますが、わたしは、わたし自身のなかに最後まで価値を見出すことが出来ませんでした。

はっきり言いましょう。
人は、人の役に立っていても、人の役に立っていなくても、価値があるのです。

無職でも
不登校でも
障害者でも

LGBTでも

引きこもりでも。
ニートでも

難病でも
精神疾患があっても

認知症でも



価値があるのです。

人は「生きているだけで価値がある」のです。

 

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