【Let’s浄霊、But浄霊】
知人の陰陽師とヒーラーと共に、先日、静岡まで浄霊に行ってきました。
これで浄霊への同行は何度目になるだろう。
ほぼ毎回、
「どうして私がこの浄霊に同行しているんだろうか」
「私、ここにいなくてもいいんじゃないだろうか」
「浄霊に行くより、コラムを書いたり絵を描いたりしないとダメなんじゃないどうろうか」
「時間がない」
っつって、出発のその時まで自問自答を繰り返します。
この自問自答をする度に、ヒーラーの彼女は私にこう言います。
「みぽ、やられてるよ」
うっそ。まじか。
ブッダ、深くうなずかないで。
「やられている」というのは、クライアントに取り憑いている霊や鬼や悪魔といった輩に、「正しい判断やちゃんとした思考ができないようにさせられちゃってる」ってことで。
「この判断、間違っているのか~」と、毎度ショックを隠しきれない私なのですが、そんな時こそ、はい、正定(しょうじょう)。
即、正見(しょうけん)。
エブリタイムwithブッダです。
「行く」と心を決め、どんな邪念にも負けずに集合場所に足を運びます。
そんなに逡巡していたくせに、旅が終わる頃には「やはり、この旅への同行は自分にとって非常に実りあるものであった」と、毎回確信するわけです。
なのにまた「浄霊行くよ~」って声をかけられると、未だに一瞬表情が曇ってしまう。
精進が足りません。
というわけで、今回は八正道(はっしょうどう)の実践のうちのひとつ、正精進(しょうしょうじん)を取り上げます。
正精進とは、正見(しょうけん)に基づく正しい努力のこと。
この努力とはどういった努力のことなのでしょうか。
【「好き・嫌い」「ためになる・ならない」の座標軸】
ある高校生の進路相談に乗っていた時のこと。
かの陰陽師の口を通して、阿弥陀如来さまがこう言いました。
「座標を作り、横軸を『好きなこと・嫌いなこと』、縦軸を『やるとためになること・ためにならないこと』としますね。
すると、
*好きで、ためになること
*好きだけど、ためにならないこと
*嫌いだけど、ためになること
*嫌いで、ためにならないこと
の、四つのカテゴリができます。
このうち、「好きでためになること」はやり易いし、そのままやり続ければいい。
また、「嫌いでためにならないこと」はやらずにいることは容易いものです。
しかし問題となるのが、
「好きだけれどためにならないこと」をいかにして無くし、「嫌いだけれどためになること」をいかにして増やしていくかという点ですよ。
ここのところを常に念頭において、日常を送りなさい」
なるほど阿弥陀如来さま。ありがとうございます。
【「ためになる・ならない」の判断基準】
言うは易し、横山やすし。
あ、行うは難し。
私たちは、この「好きだけれどためにならないこと」に流されやすく、「嫌いだけれどためになること」にはなかなか取り組めずにいるものです。
またさらに難しいのが、「一見するとためになっているようでいて、実はためになっていないこと」や「どう見てもためになっていないようなのに、実はためになっていること」がある、というところ。
そんな時、何をどう判断して選択すればいいのでしょう?
ブッダ~! どうすればいいんですか~? ブッダ~~~~~~!!!