「早い子」「遅い子」「出来る子」「出来ない子」の差
運動会シーズンになると、娘が幼児園時に通っていた頃を思い出します。
近所の中学校からは、ブラスバンド部の練習が聞こえてきたり、生徒たちがリレーの練習をしていたりするのを目にします。
娘が通っていた幼児園は体育会系で運動を通じて精神と身体を鍛えることをモットーとしていました。
ですので、運動会に向けて猛練習をするのです。
5歳児がどんな練習をすると思いますか?
朝、娘を園まで送って始業の前のグラウンドを外からネット越しに見ていると、トラックを何周も走り、その後、リレーの練習で股上げ走などもしていました。この歳でそれをするのか?といつも驚きでした。
そして、厳しさが増す年中さんの時期……
娘はあきらかに朝体操の時間を嫌がり、朝は何かとぐずぐずとして遅延策を講じていました。
娘が加入している体操クラブなども見学をしていると、あきらかに「できる子」「できない子」の差があります。
その差も歴然で、勝ち負けや出来る出来ないという目を背けられない現実が彼女の前に立ちはだかりました。
しかしながら、彼女は次第に朝の遅延策を講じなくなりました。
スターシードが人間として生まれてくる意味
勝ち負けや出来る出来ないという現実を娘なりに消化したようです。
スターシードにとって、人間として生まれてくるひとつの意味は「違いを知る」ことです。
個体としての違い、感覚の違い、価値観の違いなど、人間だからこそ感じえるものなのでしょう。
ですから、友だちとの差も、あるひとつのものの見方でしかないわけです。
それを踏まえて、昨日の自分よりも今日の自分は成長しただろうか? という視点を持つようになりました。
親としては、早い時期に大人のように勝ち負けをはっきりさせることに不安を覚えていました。
考えることも多くなりました。はたしてこれでいいのだろうかと不安も多かったです。
しかし、それは、親側の心配であり、娘に投影した「不安」「怖れ」でもあります。
そうしたことを親に考えさせるためにも、娘が人間として生まれてくる意味があるのでしょう。
娘に投影した「過去の心の痛み」を親は見つけられるかどうか
親に考える機会を作るために、スターシードは生まれてきます。
その考える機会は、親にとっては「自分を癒す機会」でもあります。
その機会を受け容れるために、親は正直でなくてはなりません。
正直になればなるほど、感情に素直になればなるほど、学びや癒しが多いと感じます。
親としては子どもに「なんで?」と思うよりも「どうしたら?」と問いかける必要があります。
親も子に起こっている事象が自分に気づきや癒しを与えるためかもしれないという視点を持つと良いようです。
そして、子に対しては、原因追及や減点法、可能性を狭めるよりも、可能性を広げる、加点法の視点を持てるようにします。
なんで、あなたはやらないの?
なんで、こんなことしちゃったの?
というよりも、
彼女の生きる力を信頼できる強さのために僕はどうすればいい?
彼女を勇氣づけるために、僕はどうしたらいい?
この事象は何のために誰のために起こっている?
心配することは、彼女のため? それとも自分のため?
悩むことよりも、彼女のためになることは何? 何を選択する?
と言ったことを自問します。
運動会を終えるたびに、娘は成長していきました。
単なるひとつの競争ごときに自分の価値は変わらないという芯の強さを感じました。
スターシードは、親に気づきや癒しの機会を与えてくれます。
娘との出逢いによって、少しずつ自分を信頼する勇氣や自分の価値を取り戻しているような気がしています。
《水本潤治・寛子 さんの記事一覧はコチラ》
https://www.el-aura.com/writer/mizumoto/?c=33212