「子どもたちの一言一言に翻弄されることはありませんか?」
この春休み中、僕たち夫婦の仕事の都合で、幼児園が提供してくれる特別保育で数日あずかってもらうことになりました。
特別保育は完全に僕たち親の都合で、娘にできれば行って欲しいわけです。
そのための追加料金もかかるわけですから(それも先払い!)、親としては行ってもらわないと困るわけです。
しかし、特別保育の前夜、娘は幼児園に行きたくないと言い出します。
こちらも特別保育にあずけられることなく、春休みを満喫している子どももいるでしょうし、行楽している家族もいるでしょう。
そのような中、特別保育にあずけるのは負い目を微塵も感じないと言い切れない自分たちがいます。
何とかできるんじゃないか? 本当に特別保育にあずけなければならないのか? と考え出すときりがありません。
だからこそ、娘の「幼児園行きたくない」という発言にどう反応していいのか? 対処して良いのか見失うことがしばしばあります。
完全に負い目を感じながら、逆ギレのような反応を娘にしてしまうこともあります。
「特別保育であずけるって言ったでしょう?」
「あなたもその時、うんって応えたじゃない?」
「パパとママに仕事をさせてよ!」
「特別保育に行ってもらわないとパパもママも困っちゃうから!」
と娘も感情的に成熟していない僕たちにあきれるばかりでしょう。
ちょっとした強迫めいた台詞も口から出てしまいます。
こちらとしては、力ずくでも、という氣持ちにすらなります。
そんな時に、いつも天使からもらっているメッセージを思い返します。
「反応するのではなく、すべてを信頼し、1度受け容れてみましょう。(天使談)」
一番、感情的になりやすい娘のことでそれを実践するのが、僕たちの魂が望む「成長プログラム」のひとつなのでしょうか。
「相手の言葉を受け容れて、一緒に考えてみよう。」
幼児園に行きたくないと言い出した彼女の言葉を良く聴くために、その言葉を親である僕たちがまずは噛みしめます。
「そうか、行きたくないんだね。ごめんね、嫌がることをさせようとしているね。特別保育は無しにしようか。うーん、でも困ったなぁ……。うーん、どうしよう?」
彼女もその言葉を聞き、自分の言葉がパパやママにどう届いているのかを振り返っているようです。
理解してくれているかどうかを試しているかのようです。
一拍おいて、僕から彼女にお願いをします。
「パパからお願いしても良い? パパとママお仕事でちょっと家を空けると思うの。
その間、君には留守番をしていて欲しいんだ。でも、ひとりで留守番をさせておくのは僕たちとしては心配なわけで……
その時間はいつも遊びに来てくれる婆と遊んで待つ時間の倍くらい。
その時間、友だちが一緒のほうがひとりでお留守番するよりもはるかに楽しいと思うの。
どうだろう? どうするのが楽しい? 僕たちとしては特別保育で友だちと一緒に過ごすことをオススメするよ。」
ひとりでお留守番する! と言い出したら、どうしよう? と思いつつも、彼女に対して提案をしてみるわけです。
すると、しばらく考え込んで、娘は「特別保育に行く!」と納得してくれました。
彼女自身、自分の理解を超えたところで、僕たち親が勝手に決めてしまうことをあまりよく思わないようです。
理解し合いたいわけですね。
だからこそ、相手の言葉をいったん受け容れて、一緒に考える場を創り出すことに集中するほうがお互いにとって穏やかな氣持ちになれ、話し合いができるようです。
それを「対 こども」でするわけですが、それはそのままコミュニケーション上手になれる訓練みたいな機会を与えられていると考えることで、ちょっとは取り組んでみようと思えるかもしれません。
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