親が怒るとたいていの子どもは泣くのではないでしょうか? 子どもを怒るのは何のためでしょうか? 躾でしょうか? 社会のルールを教えるためでしょうか? 怒ることの正当性を主張することは、親自身たやすいことでしょう。思考を騙すこともできます。
しかし、子どもたちはもっと深いところで親を観ているかもしれません。身を挺して親を護ろうとしているとしたら?そのために、「泣く」という手段を使っているとしたら?
AQUAMIXTでは、「虐待からの解放」をテーマにしたモニターセッションを行っています。
「虐待」というと他人事のように思えるこの言葉も注意して観てみると日常のあらゆるところに自分を虐げてしまっている瞬間瞬間があります。
例えば、自分を過小評価することや自分を責めること、自分に嘘をついたり、身体を酷使することなど、自分自身にも当てはまるところはたくさんあります。
自分を虐待することから解放されたら、どのような世界が待っているでしょうか?
先日、就寝前に娘の小葉が花火をしたいと言い始め、ママの寛子が付き合ってベランダで花火をすることを提案しました。風の強い夜でした。
「ベランダは危険だし、近所迷惑にもならない?」と忠告するも、ふたりの楽しみたいという意志の前に僕も強くは言えませんでした。
煙の少ない線香花火でしたし、強く言うほど警戒もしていませんでした。
ふたりの楽しそうな声がベランダから聞こえてきて、穏やかな夜を終えようとした時、小葉の叫び声が聞こえてきました。
「火傷! サンダルの下に火花が入った!」と寛子の声が聞こえ、慌てて小葉をリビングに寝かせました。
慌てて火玉を取り払うと足の裏に丸い火傷の跡が残っていました。
痛がる小葉に動転した僕は、氣がつくとふたりを怒鳴っていました。
「風の強い日にベランダで花火をするからだよ! そんな危険なことを絶対にしないで! 痛い思いをするのはあなたなのよ!」
「ママは何やっているのよ! 自分も花火をしてどうすんの? 危険から小葉を守らなくて楽しんでる場合じゃないよ!」
マンション中に轟く大声で怒鳴り散らすと、小葉は痛みよりもパパの怒鳴り声に驚いたように大声で泣き始めました。
僕も動転し、同じことを繰り返し注意しました。
「絶対にこんな危険なことをしないで!」
そして、ママを激しく責める僕のことを見て、また泣き出しました。まるでママのために泣いているように。
しばらくして、少し落ち着き始めた時、泣き続ける小葉が、小声で何かを伝えようとしていることに氣づきました。
「何?? はっきり言って!」
相変わらず、パパは動転していたので小葉に強く言ってしまいました。
「パパに怒ってほしくない。」
「パパは大事な人だから、怒らないでほしい。」
「パパが怒るの見たくない。」
と、精一杯のか細い声で僕に伝えてくれました。
よくよく、彼女が言いたいことを考えてみると、彼女が言いたかったことは、
「パパは大事な人だから、自分のことを虐めないでほしい。」ということでした。
ママを激しく糾弾する姿も結局は僕が僕自身を虐めていることであり、その姿を観て、小葉は悲しくて泣いてくれていたのです。
「自分のことを大切にして欲しい。パパはわたしの大切な人なんだから。」
と彼女は、僕のために泣いていたのです。
子供たちが泣いている時、何かを伝えようと必死なのかもしれません。
泣くのは、僕たち親を守ろうとする思いを上手に表現できないからだけなのかもしれません。
僕たちは氣づかずに、他人を傷つけたり、怒ったり、批判したりを繰り返して、実は自分を傷つけているようです。
それこそ、自己虐待です。
日常生活の中には、怒るべき対象が少なからずあります。
しかし、その怒るというエネルギーがブーメランのように自分に帰ってきているとしたら、それは紛れもなく、自分を傷つけていることになります。
いつの間にか、自分を虐げているとしたら、自分の人生を軽やかに生きられるでしょうか?
ましてや、それを救おうと必死な子供たちは何を思っているでしょうか?
子供たちに怒ることで、状況を混沌としたものにするのではなく、じっくりと子供の声に耳を済ませたら、どのような世界が待っているでしょうか?
自己虐待からの解放が少しずつ進むことを僕自身祈っています。
《水本潤治・寛子 さんの記事一覧はコチラ》
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