「義務」「犠牲」と「ギフト」「アディクション」との関係 PART.1

皆さんは日常で、「~しなければならない」という思いが多くないでしょうか?
また、仏教の教えやスピリチュアルの教えでは、「他者への奉仕」の実践が自分の煩悩を解放してくれるとして、自分のことは横において、誰かの為に必死になっていることはありませんか?

私は20代そういう生活を長く送ってきました。
もちろんいい所もありましたが、やればやるほど、自尊心の欠如につながっていきました。
自分の気持ちを過剰に優先にしてきた10代から突然社会に出るために、進路変更した20代。
「学生はお金を払っているんだから、こっちがサービス受けて同然でしょ?」と本気で思っていたお影で(?)、好き放題しました。しかし、お金をもらう立場は、その逆であるということもしっかり認知した上で暴れん坊将軍をしておりました。社会に出て、それらを全て突然箱にしまいこみ、世の中、人の為に対応してこなかった人生から、突然の過剰適応。

その際に、抑圧の気晴らしや鬱憤のはけ口になったのが、アルコール、食べ物、買い物、過剰な運動、ワーカーホリックでした。これらは全て「アディクション」嗜癖と言われる行動です。
元々、生きたいという気持ちが幼少期から感じた事が無かった上に積み重なった嗜癖。これらを何とか回避し、立ち上がるために様々な本、メゾッドを独学で勉強しました。まず情報収集の為に、あらゆるジャンルの本を読み漁りました。

その一冊にヨガの本がありました。ヨガのポーズだけをしていても、全く良くなりません。なる人もいるそうですが、私には全く意味を成しませんでした。

そして宗教に関する本、特に仏教の本に注目し読み始めました。
「他人に奉仕しなさい」と書かれていたので、嗜癖が治ると思い、これまた必死に、いえあれは過剰なまでの奉仕活動へと邁進しました。
でもそれは、人から良く思われたい、認められた下心から発していた故、ちょっとでも躓けば、すぐに憂さ晴らしのために嗜癖へと流れていきます。

~つづく~