雑多な知識を抱え込むほどに、何故か心の風通しが悪くなる!
「知りません」
と言うことには、少しの抵抗感があるものです。
とりあえず通り一遍のことは知っていなければ、不勉強と思われてしまいそう。
教養がないと思われてしまいそう。
そんな不安が、ひたすらに
「知っています」
と言えるよう、私たちに知識を詰め込ませているのではないでしょうか。
それゆえ、あふれんばかりの情報の中で、右往左往する羽目に陥ることもあります。
特にネットの普及で、私たちはあまりにも簡単に情報を得られる便利さを獲得してしまいました。
その都度インプットをしていたら、冗談ではなく、本当に日が暮れてしまうほどです。
しかし、それほどまでの知識欲と自分との関係は健全かと言えば、大いに疑問を感じます。
あまりにも雑多な知識を抱え込むと、それが負担となって、判断力や思考力を鈍らせてしまうこともあるからです。自分の感覚で決断したり、選択したりということがむずかしくなるのです。
それは知識の渦で自分自身が飽和状態になって、心の風通しが悪くなるため。
断捨離やミニマルライフにスポットが当たっていますが、それは暮らしに限ったことではなく、目に見えない「情報」や「知識」についても同じことが言えるのではないでしょうか。
何でも屋さんより、専門家! 自分に必要な知識だけと深く付き合おう
そこで今一度、とりあえず何でも知っておけば安心、という感覚を疑ってみることをおすすめします。
本当は関心のないことまで知ろうとしてどうするのか。
そんなに物知りと思われたいのか。
シンプルにそう自問してみると、答えはたやすく出ると思います。
そして、何でも少しずつさわりだけ知ろうとするよりも、特定のテーマについて深く知っている、「専門家」でいることのほうが知的で、また楽しいものです。
たとえば今年ブレイクしそうと言われているミュージシャンがわからなかったとしても、長年好きで聴き続けてきたミュージシャンの世界観を理解しているほうが、ずっと豊かなことではないでしょうか。
さらに自分にとって必要な知識だけと深く付き合っていくと、それは「持ち味」になり、やがて魅力のひとつとして生きてくることも確かです。
何でも知識を得ようとする「何でも屋」さんになってしまうと、ひとつのことを掘り下げて、じっくり自分のものにする機会がないため、知っているにも関わらず、自分の中で味気なさを覚えるばかりか、どこか空疎な雰囲気すら漂うようになり、思うほどよいことはないのです。
こんな情報のデトックスの仕方もあります。捨てる以前に、最初から入れないことです。
また、余計な情報はもはや、頭の中のゴミとも言えます。
その情報が雑音となり、ストレスと化すこともあるからです。
むしろ、知らずにすむように気をつけるくらいでちょうどよいと思います。
そこで、情報のデトックスとして、必要のないことは順次忘れていくこと。そして、要らない情報は最初から取りこまないようにしたいものです。
その方法として、こんな心がけからはじめるのはいかがでしょうか。
・新聞の折り込みチラシ、ポストに投げ込まれたチラシは見ない。
・心から見たいTV番組以外は見ない。
・受信メールは、必要なものしか開封しない。
・書店に行く際は、目的のコーナーにのみ足を向ける。
・ネットサーフィンは時間を決めて行なう。
・レギュラーで読むサイトの「新規開拓」は意識して行なわない。
この程度の情報のデトックスをするだけでも、知らなくていい情報から、すんなりと離れられるようです。
「知らない」ことは、決して無知でも、恥ずかしいことでもありません。
それは自分の在り方を大切にしていること。
私たちには「知らない権利」もあるのです。
思うよりずっと短い人生、要らない情報のために時間を無駄にするのはもったいないもの。「知らない自由」を満喫し、自分の追求したいものだけと、軽やかに向かい合える毎日を送りたいものですね。