ココロセラピストが語る!? 悲劇は突然やってくる。~焦るな、落ち着けば、きっと道は開ける~

日常

悪夢、ふたたび。

悪夢はふたたびやってきた。睡眠時の悪夢ではなくリアルだ。何かといえば、腰痛である。僕は過去に腰を痛めたことがある。それ以降、時々痛みが急に復活する。腰痛になると、激痛のあまり歩けなくなる。立っても座っても痛い。何もしなくても痛い。寝返りが打てないので寝るに寝られない。服を着替えられない。トイレにいけない。とにかく、痛みに耐えながらひたすらジッとしているしかないのだ。だが、寝ないわけにはいかないし、トイレにいかないわけにもいかない。そして何より、だからと言って、誰かが生活を保証してくれるわけでもない。つまり、仕事はしなければならない。

過去に、腰痛で仕事を数日休んでいたら、事実上クビにされたことがある。今でいうパワハラに該当する気がするが、職場からすれば僕は邪魔なお荷物でしかなかったのだろう。参考までに言っておくと、当時はそれを恨んでいたが、今は恨んではいない。許す許さないの問題ではない。時間とは実に不思議なものだ。当時はとても辛かった。腰が痛いから、自由に動けないから、というのもある。だが、社会から見捨てられたような、存在否定されたかのような、とてつもない寂しさが辛かった。とにかく自己評価や自己肯定感が著しく低くなる。「人生、終わった……」という実感が湧いてくる。

僕は、「怖いものは何か?」と聞かれたら「孤独」と答えている。「かまってちゃん」とか「自己顕示欲の塊」とか、そのたもろもろ、言われることもある。自覚がないわけでもない。しかしそれは、もしかしたら、それは孤独になる恐怖をおそれているからかもしれないと思う。先日、急に腰痛が襲ってきたときに、当時の恐怖も同時に襲ってきた。痛みと不安で泣きたくなってきたが、こういうときは不思議と涙もでないものだ。

……と、悲しい話を続けているが、結論から言えば、過去に痛めた腰が、何らかのショックで炎症を起こしていただけで新たに骨に異常があったとか、そういうことではない。今も鈍い痛みはあるが、なんとか日常生活を過ごせるくらいには回復した。

当たり前って、当たり前なのだろうか。

僕は、いつも「当たり前は、実は当たり前じゃない」と言っているが、改めてそれを実感した。腰痛は、御免被るが、この経験で日常が当たり前ではないことを思い出せたのは良かったと思っている。眠れる幸せ。トイレに行ける幸せ。食事ができる幸せ。こういう本能レベルなものは、普段あまり感謝しないかもしれない。でも、これができる、できないではQOL(人生の質)の差が大きく違ってくるのだ。

ちなみに、今こうして執筆できていることにも本当に感謝をしている。腰が痛すぎると、寝てもいられないし、座っていられないし、立てないし、とにかく動きを封じられてしまって、PCに向かうこともできないのだ。いつもルーティーンとして、楽しく執筆しているが、楽しく執筆できていることは、よくよく考えれば、当たり前のことではないのだ。そう考えると、編集部の方にも、読者の方にも、言葉にならないほどの感謝の気持ちが湧き上がってくる。だから、というわけでもないが、この記事を読んでくださっているあなたにも、今以上の幸せを手にして欲しいと思っている。

感謝の気持ちを忘れずに。

当たり前と思っていることは、本当は当たり前でも何でもなく奇跡なのだ。とにかく、これは重要なことだから、頭の片隅にでも構わないので叩き込んで欲しい。悲しい気持ちになることも確かにある。だが、そんな中にもほんのわずかでも良いことがあれば、それが生きる糧になる。他人の幸せと比較してしまうと、モヤモヤしてしまうかもしれない。だが、幸せは誰かと比較することよりも、自分自身で感じることが重要であることを、ここに付け加えておく。

日常が壊れると、世の中が地獄に映る。右も左も、存在するのは魑魅魍魎だと思えてくる。だが、よくよく考えると、自分の日常が壊れて、違う視点で物事を見られるようになったからこそ、そう思えるだけで、当たり前の日常気分を味わえているときは、この世が地獄に映ることはなかったと思う。冷静になって考えてみると、あることがわかる。世の中が地獄で他人が魑魅魍魎だとするならば、いったい自分は何様なのだろうと気づく。

この世が地獄に映って、本当に苦しんでいる人たちに、自分は一体何をしてあげられただろうか。自分がいかに恵まれていて、幸せにくらしているのかも自覚せず、物事に対する感謝も薄い。不平不満を言いつつ、自分本位に生きていたことが浮き彫りになる。

じゃあ、人生を人類の救済や善行だけに捧げられるかというと、少なくとも僕にはできない。時には、困っている人を助けてあげられないこともある。むしろ、そのようなことの方が多い。他人を魑魅魍魎の類と分類することよりも、まずは自分がどうありたいか。どう生きたいかを冷静に考え直すと良い。大きなことはできないが、小さな善意なら継続できるかもしれない。みんなが小さな善意を配り続ければ、世の中は間違いなく温かくなる。

今、僕は割と恵まれていると思う。今回の腰痛で、やはり過去の心の傷が大きく開いてしまったのは事実だが、その時と今は違う。今のところ、運なのかもしれないが、誰も僕を社会的に排除しようとしてこない。むしろ、優しい。だからこそ、理性を失わずに済んだのかもしれないと思う。本当に本当に、あなたを含めた仲間たちみんなに感謝の気持ちでいっぱいだ。お互いが、お互いに小さな善意を配り、感謝の気持ちを持ち続ければ、僕たちは、ちょっとやそっとじゃ挫けないし、QOL(人生の質)も下がらない。僕は、そう思う。

鬼滅の刃。

数年前、『鬼滅の刃』というアニメが大流行した。あれは、まさに日常が突然壊れるというところから始まる物語だった。今(2023年6月現在)もテレビ放映されていて、根強い人気を誇っている。マンガだから、と言ってしまえば身もふたもないが、主人公の竈門炭治郎は、本当にすごいと思った。鬼滅全盛期は、ちょうどコロナが蔓延していた時期だ。ウィルスに感染した人、収入が減ってしまった人、職を失ってしまった人も多かったと思う。

未知なるウィルスという脅威に怯え、知人友人が感染源になるのではないかと警戒し、自由に外出もできなくなった時期だった。まさに当たり前の日常が失われた時期だった。大なり小なり心身の健康を損なってしまった人もいるのではないだろうかと思う。人間のイヤな面を目の当たりにした人も多いのではないだろうか。

僕の個人的な腰痛の話からパンデミックの話まで大きく飛躍してしまったが、とにかく、人生いつ何が起きるかわからないということだ。それでも、僕たちは希望を失わずに生きていこう。そして、未来に生きる素晴らしさや、未来を勝ち取る心を伝えていこう。




  

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