「嗚呼、つらい」ってどんな時?
「嗚呼、つらい」と思うことって、たぶん誰でもあると思います。
つらさにもいろいろな種類がありますよね。
①うっかりつまづいて転んだとか。転んだ時の傷が思ったより直りが悪くてしばらく痛かったとか。風邪をこじらして寝込んだとか。夜、なかなか眠れなくなくてボーっとする日が続いたとか。
②仕事や勉強が難しすぎたり、量が多すぎたりしたとき。仕事や勉強の時間が長すぎて、頭がくらくらしてきたとき。
③誰かにマウントを取られたとか、誰かに批判されたとか。誰かに美味しいところを持っていかれたとか。誰かに悪評を流されたとか。誰かに利用されたとか。誰かに都合よく見捨てられたとか。誰かに疑惑を持たれたとか。誰かに仲間外れにされたとき。誰かに責任転嫁されたとき。
今、書きながら「うわ。改めて考えると、つらさって、こんなに思い浮かぶものなんだ……」と自分で驚きました。たぶん、もっと考えれば出てくると思うんですが、このあたりでやめておきます。
ネガティヴ・ワード多発で、疲れてしまったらごめんなさい。なんで、こんな話をしているかというと、しあわせについて考えてみようと思ったからです。しあわせって何だろうって考えた時に、しあわせじゃない状態を考えた方が、わかりやすいかなって思った次第です。
ココロセラピストTATSUMIが考えるしあわせとは?
心理学的に、とかではなくて純粋にココロセラピストTATSUMIが思う、しあわせについて結論を書きますね。
それは『人間関係が良好な状態』です。
無理に共感しなくても大丈夫です。ひとそれぞれ、考え方、感じ方は違って当然ですからね。
でも、参考になれば幸いです。
「嗚呼、つらい」の①の例で出したパターンはケガや病気の身体的なモノです。これも、確かにつらいですよね。ケガをしたことのない人にケガのつらさなんてわからないだろうし、病気になったことのない人に、このつらさなんてわからないかもしれません。
②のパターンは、タスクの内容や時間が自分の限界を超えた時ですね。いわゆるオーバーワークをイメージしてみてください。心身が摩耗して倒れそうになるほどつらいかもしれません。
③のパターンは人間関係の悪さですね。これに関しては、僕は断トツでつらいと感じるかもしれません。だって、ケガをしても、病気になっても、人間関係が良ければ、助けてもらえる可能性高いですよね。たとえば、仕事を休んでも文句を言わず、それどころか回復を願ってくれるとか。仕事のタスクが多すぎても、手伝ってくれるかもしれません。どちらも、自分一人ではどうにもならない状況でも、自分以外の誰かが不要に責めてくることなく、優しい手を差し伸べてくれたりしたら滅茶苦茶嬉しくありませんか。時には、周囲の優しさに、自分が小さな情けない人間に思えて自己肯定感が低くなってしまうこともあるかもしれません。それでも、だからといって③の方が良いかっていうと、そんなことはないですよね。
ひとはひとりでは生きていけない。
そもそも、ひとはひとりでは生きていけません。
なので僕がもっとも恐れているのは実は孤独だったりします。
だから大きな集団に属して目立ちたいとか、そういうことではなくて。
しあわせなときって、どんなときでしょうか。
先ほど『人間関係が良好な状態』といいました。これを深堀していくと『感謝できる状態』につながってくるんですね。優しくしてくれたら「ありがとう!」という気持ちになりますよね。助けてくれたら「ありがとう!」という気持ちになりますよね。
なるんですよ。感謝の気持ちに。同時に感謝の気持ちが湧き出てきた自分自身に対しても感謝したくなってくることもありますよね。
くれぐれも、『人間関係が良好な状態』を他人を思い通りに操れるとか、他人が自分の想いを勝手に汲み取って動いてくれるとか、そういう情けない勘違いはしないでください。
少なくとも、この記事を読んでくださっているタイプの方にはいないと思いますが……。
卑屈になりすぎないで。
「俺は、借りを作るのが嫌いなんだ……」とか「恩を売ったつもりか……」とか卑屈な人もいるかもしれませんが、それは相手がどうこうではなく、自分の受け取り方に問題があるかもしれません。
借りを作るのが好きな人とか、恩着せがましい人が本当にいたら、関わらない方が良いと思いますが、そういう人は世の中にたくさんいるとはいえ、出会う人すべてがそういう人ではないことも忘れないで欲しいです。
植え付けられた欲望がしあわせにつながるとは限らない。
さっきから、僕が思うしあわせの話をしています。
なので、厳密には、他にもたくさんのしあわせの種類や考え方、感じ方があると思います。
ただ、僕の話も含めて、最終的には、自分自身で「私にとってのしあわせは……?」という問いに答えられるように意識してみてくださいね。
少し前までは「秒速で億を稼ぐ」とか「六本木ヒルズに済む」とか「セドナで写真を撮る」とか、要するに、お金をたくさん持っていて、好きなことができる状態こそしあわせだという空気感がありましたよね。
確かに、すごいと思います。自分がそういう立場になったら嬉しくないかというと、そんなことはなくて嬉しいと思います。
でも、だからと言って、必ずしもしあわせか。しあわせと感じ続けられるかと言われると、きっとそうでもないんだろうなとも思います。
「自分の下に1000人の部下がいる」とか「youtubeのフォロアーが10万人」とかになれば、しあわせって思っている人もいるかもしれません。
まぁ、これも嬉しいですよね。ちょっとしあわせなきもちになるかもしれません。
自分がモデルのような美貌を持っていたらどうか。
これも嬉しいけど、人生が100%好転するほど幸せかというと、ちょっと違うのかなと思います。
人って、誰かに気づいてもらわないといけないから何かしら自己アピールせざるを得ないことも多いんですよね。「俺って、こんなにすごいヤツなんだぜ!」的な。
就職の面接とか、まさにそうじゃないですか。差別化を図らなければならないんですよ、他の人と。だから、何かにこじつけて、自分はすごい人間なんだというアピールをするんです。
僕はこれを決して悪いと言っているわけではありません。
自分が誇れるような何かを持っているというのはとても素晴らしいことだと思います。
ただね、それはら人生を豊かにするツールの1つに過ぎないということも頭の片隅に入れておいた方が良いのかなと思うんです。
僕自身、特に際立った長所ってないし、スキルもないし。正直、何か誇れることがある人が羨ましいって思うこともありますよ。
なんですけどね、見下すでもなく、人として接してくれる人たちに囲まれてると、「やっぱり、こういうのがいちばん、僕にとってはしあわせなんだよな」なんて思うわけです。
たとえば僕は過去にブラックな職場を転々としてきましたが退職理由のほぼすべてが人間関係の悪さについていけなくなったということなんですね。大変でも、生活できないほど薄給じゃなければ、頑張るし。
でも、人間関係が最悪だと、正直、生きているのがイヤになるくらい追い詰められたりしませんか。
そういうのを安易に「根性なし」とか「コミュ障」とか、そういう言葉で括って終わりにしていいとは思わないんですよ。
もちろん、人は人によって磨かれるので反面教師も時には必要でしょう。
もしかしたら自分が未熟だっただけで、本当は周囲の人たちに迷惑をかけていたのは自分かもしれません。でも、「これ以上、この人間関係の中にいるのは地獄だ」と思えたら、花形な職業だろうが、給料が高かろうが、イヤなものはイヤなんです。しあわせじゃないんです。
「なんで、辞めちゃったの? 勿体ない……」とか、大きなお世話なんです。
別に仕事の話をしたいわけじゃないですよ。
生きる上で、関わる人たち全般についてです。
さらにいうと、みんながみんな善人で相性バッチリな環境が、理想的で、しあわせになる条件だ、とも言っていませんからね。
地味な人間関係でも、地味に温かみがあって、その関係をゆっくりと育んでいけて、それらが巡り巡って、お互いに支えあったり、助け合ったりして、末永く地味に暮らしていけるような環境があれば、必要以上に無理してリア充アピールする必要もないし、無駄に力まなくて良いんです。
それが退屈な人生だと思うのも構わないんです。
でも、僕は退屈な人生を推奨しているわけではありません。
『良好な人間関係』の中で、自分らしい自己目標などを自分のペースで達成していけば良いだけですから。
というわけで、何が言いたいかっていうと、しあわせって人間関係だと思うから、自分が良い人間関係を望むように誰かも、良い人間関係を望んでいるということ。
なので、望むだけでなく、相手に少しでもしあわせを与えられるような生き方をすると、しあわせが循環するんじゃないかなというお話でした。
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