ココロセラピストが語る! 『無痛社会』の痛みとは? ~痛みを感じないことは問題なのだけれど~

ケンカ

ケンカをしない人生なんてない!

誰もが一度はケンカをしたことがあると思います。僕はケンカはできるだけ子供の頃に経験しておいた方が良いと思っています。

ケンカを経験しておいた方が良いなんて、なんて野蛮なのだと思うかもしれません。もし、一生涯で一度たりともケンカをしなくて済むのであれば、無理にケンカなんかしなくて良いです。

僕が言っているのは、人生には幾度となく、他者とぶつかり、納得いかないこともあるのが前提で話をしています。

ケンカよりも仲良くする方法を教えてくれと思うかもしれません。探せばいくらでもあるかもしれません。でも、人生で一度も誰かと衝突しない人生を前提としたノウハウやハウツーはないと思います。もし、そのような本が売っていたとしても、前提に無理があるということで、売れないこと間違いなしだと思います。

 

喧嘩が怖いのではなく、ケンカをされるのが怖い。

子供のうちにケンカを経験しておいた方が良いと僕は言いました。でも、これも違った意味で怖いんです。それは、大人が必要以上に出てくることです。

たとえば、学校でちょっとしたケンカがあったとします。もし、そこで「うちの子が、学校でイジメにあっているらしいじゃないですか。一体、学校ではどういう教育をしているんですか?」なんていう親が出てきたら本当に困ると思うんです。

本当にイジメだったら大問題なのですが、少し冷静になって様子を見て欲しいんです。早期発見、早期介入、早期解決が望ましいのかもしれませんが、独断と偏見でイジメ認定してしまったり、申し訳ないけれど、自分のことを棚に上げてなんでもかんでも学校のせいにするのも何か違うと思うんです。

たとえば自分の子が泣きながら家に帰ってきたら、まず話を聞いてあげて欲しいんです。共感はしてあげて欲しいですが、同時に鵜呑みにせずに俯瞰して欲しいんです。

たまに弁が立つ子っていますよね。まず、そこが重要なんです。弁が立つ子は、自分を有利にみせるように物語を作ります。

「〇〇くんが、殴ってきた、逃げてたら転んだ」とだけ言われたら、○○くんは酷い子のように思われると思います。

捏造記事と同じです。一部分だけを切り取ってクローズアップするんです。そうすると、その情報だけが独り歩きしますよね。芸能話でも、政治でもそうですよね。なので、情報を正確に見極めるためには冷静さが必要になります。背景をきちんと知る必要性があるんですね。

そういうことを考えるのが面倒になると「そもそもケンカが起こる環境って何なんですか?」と因縁をつけて来たりする場合もあります。そうすると、如何なる理由があろうともケンカをさせてはいけない空気感ができてしまいます。大人たちの手によって。

そうすると、学校側が親に怯えてしまい、それこそ心を病んでしまいかねません。そして、申し訳ありませんが、小さなことでも目くじらを立ててくる親がいると、悪さをしている子に注意しただけで、体罰だなんだと言われかねない恐怖につきまとわれながら子供たちと接しなければならなくなります。

そして、最終的にケンカを防げなかった大人が理不尽な責任を押し付けられて痛い目にあってしまうのです。

小さなケンカなら、小さなケガ程度で済みますが、ここで大人が介入しすぎて事が大きくなってしまうと、小さなケガどころか人生に大きな傷をつくってしまう可能性もあるのです。

昔はよかった、とは思っていません。本当に容赦しない暴力教師もたくさんいたのは事実です。ただ、「うちの子、調子いいのでテキトーなことを言って悪さしても言い逃れをしてたら遠慮なく叱っちゃってください」くらいの親の方が結果的に双方のためになると思います。

親であれ、学校であれ、誰かが誰かと揉めていたり対立していたりしたときは、はじめはそっと様子を見てあげてください。大事なのは、介入時期を見極めることです。

人は他者の痛みを理解する必要があります。痛みを知らない人は、相手の痛みも考えることができません。ある程度は、小さいうちに、痛い目にあっておく必要もあると僕は考えます。

 

逆・名探偵コナン

ケンカひとつしたことのない子が大きくなってパワーだけ大人になったら怖いと思いませんか。
「見た目は大人、頭脳は子供!」と逆・名探偵コナンみたいな人がいたら怖いと思いますよね。

大人のパワーで殴りかかって来て「だって僕、むしゃくしゃしてたんだもん!」で許されるわけがありません。「見た目は子供、頭脳も子供!」の時代に、ケンカをして痛い目を見たり、迷惑をかけありして親や先生に叱られたりして痛い目を見たりして、人と人との距離感のバランスを身につけた方が圧倒的に人生に有利だと思いませんか。

転んでも痛くない床とか、そういうのも素晴らしい発明だと思いますが、転んだら痛いということを学ぶ場も人生には必要なのではないかと僕は思っています。

たとえば自分の子が強すぎてたとえ間違ったことをしていても力で相手を屈服させているのがわかったら「子供同士の事だし」ではなく、きちんと叱ってあげる必要があります。

生きるということは、腕力が強ければいいとか、口が達者なら良いとか、そういう物差しの上で生きているわけではないのですから。

もちろんケンカは良いことではありません。それを教えつつ、痛みが小さくて済むうちに失敗体験をさせて身体で学ばせる方が僕は教育的には良いのではないかと考えています。

 

『無痛社会』の痛み。

子供に限らず大人も同じです。今は『無痛』が最善のように思われている時代です。まさに無痛時代です。

確かに無駄な痛みなどない方が良いでしょう。でも、痛みって、そもそも何のためにあるのでしょうか。それを思い出してください。痛みは「これ以上状況が悪化しないように気づかせるシグナル」なんです。

出血しているのに痛みがなかったら、出血多量なのに気が付かず、とんでもないことになってしまいます。

痛みを感じたことがない人が相手を本気で殴ってしまったら、悪意はなくても致命傷になってしまうかもしれません。

これは物理的な痛みに限ったことではありません。心の痛みも同様です。
そして、本当に世界中から痛みが消えることってたぶんないんです。

ケンカに関与してしまった学校の先生然り、お客様至上主義でクレーマーに追い詰められて病んでしまうショップ店員さん然り。たぶん、どこかで誰かが、とてつもなく大きな痛みを背負わされているのです。

自分に痛みがなければ、誰かを傷つけても良いということはありません。生きるということは、他者を思いやるということ。少なくとも人間は、そうなんだと思います。

自分が痛くなくても、相手は痛いかもしれない。痛みはある程度、知っていた方がいい。心も身体も、痛くなりすぎて耐えられなくなる前に対処するための大事なシグナルなのだから。

 

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