ココロセラピストが考える! スピリチュアルを信じている人は本当に怪しいのか?

スピリチュアルってぶっちゃけ怪しいよね?

スピリチュアルが好きな人たちの殆どの人はきっとどこかでこの問題にぶち当たった事があると思います。

それは、「スピリチュアルって怪しいよね?」という批判です。

スピリチュアル系の話題が好きな人や、スピリチュアル系のお仕事をしている人にとっては、これは本当に耳が痛くなる言葉だと思います。

言うなればスピリチュアル系の人にとってスピリチュアルというのは『自分軸』の基盤になっているものです。
なので、自分軸をバキッとへし折られてしまうと、まるで自分の存在を否定されたような気持ちになってしまうのです。

 

僕は不思議少年?

隠すことでもないので僕自身の話をします。
僕は『ココロセラピスト』と名乗っていますが、同時に『運命鑑定師』でもあります。
こちらの肩書きはそんなにメインにしていませんが、たのまれればタロットカードを使ってあれこれ占ったりする事もあります。

僕は子供の頃から、超能力や魔法やオカルト話が大好きでした。サンタクロースも信じていました。

ただ、大好きでも僕は超能力者でも、魔法使いでもありません。
若干幽霊のようなモノが見えていた時期もあるにはありますが、それが霊能力かどうかはわかりません。
サンタクロースは信じていますが、キリスト教でもなんでもありません。
でも、そういう世界観や概念は僕にとってはとても重要だったのです。

 

可能性を高める場所?

ちなみに、これらの概念は学校では教えてくれません。
はっきりいえば学校というのは「そんなことはどうでも良いから、受験勉強しなさい!」という場所ですよね。本来の意図は違うと思いますが。

そうすると、僕たちの意識は受験のための勉強みたいなのもにフォーカスしていくので、それ以外の世界が見えなくなってしまっている気がします。
もちろん、学校には学校としての価値があるのは承知しています。
学校という存在を否定しているわけではありません。

これは僕の勝手な思い込みかもしれませんが、学校で教わった事にずっとフォーカスして生きているので、もしかしたらそれによって視野が狭まってしまう人もいるのかなと思うのです。

もっとも、学校で教わることの内容量も僕にしてみれば多すぎるので、小学校から高校までの知識なんて殆ど覚えていませんし、情報処理がまったく追いついていないのですが……。

何を言いたいのかというと学校批判では無くて可能性の話です。
そもそも学校というのは、みんなの人生をより豊かにする可能性を追求するために行くものだと僕は解釈しています。可能性を高めていくための基礎訓練をする場所だと僕は思うのです。

たとえば、僕が子供の頃は携帯電話なんてありませんでした。
トランシーバーこそありましたが、それだって一部の人しか持っていなかったと思いますし、人によっては知らないかもしれません。

PCだって、今でこそ使いこなせて当たり前で「タイピングが苦手ですなんて言おうものなら就職できないよ」と鼻で笑われる時代になりました。
でも、僕が子供の頃はお金持ちの家にしかない不思議な箱だったのです。

これらは誰かが未知なる可能性を追求した結果、誕生したのだと思います。
だとしたら、スピリチュアルやサイキックを必ずしも全否定しなくても、可能性としては残しておいても良いのではないかと思うのです。

おそらく今も不老不死とか、それこそ神の領域みたいなことを本気で考えている人たちもいるのです。
それが良いことか悪いことかは僕にはわかりません。
ただ、可能性があるから追求する人がいるのです。

「そっちには進まないように……」という暗黙のレールが敷かれてしまうと、僕たちは可能性がどんどん狭まってしまうのです。