よく「子供を作るからには、まずは自分が子供に不自由させない力(特に財力)を身につけてからにしなさい」と言ったような事を言う人がいます。確かに正論かもしれません。でも、そんな事を言っていたら、子供に恵まれる前に人生が終わってしまうかもしれません。子供という存在は安定が確実になってから産む物ではないのです。もしそうなら、単純に考えればわかると思うのですが、人類は既に絶滅しているハズです。
これは子作りに限った話ではありません。また学校を例に出して申し訳ないのですがイメージして下さい。学校って受験に勝つ事を目的としています。本当の目的は知りませんが……。だったら、スポーツ推薦でも目指すのでなければ、部活なんてやらなくて良いじゃないですか。無駄でしょう。運動したり絵を描いたり、楽器を演奏したり。そんな時間があるのなら、部活の時間に先生がサービス残業で授業をしてくれれば良いじゃないですか。でも、そういうものではないのです。部活が好きな人たちは、そんなリスクを取りながらも、必死で両立しようと頑張っているのです。
話を戻して、親も無駄に子供を産み育てているわけではないのです。
小さな子供から見れば親は完璧な存在に映っているかもしれません。しかし思春期以降になると、親も完璧ではないと知り、少々がっかりしながらも、それが人間なのだと理解し、受け入れて行きます。親が必ずしも幸せになれる方法を具体的に教えてくれるわけではなさそうです。
僕たちは敷かれたレールの上を歩いている
僕は必ずしも、学校や親が幸せになる方法を教えないから悪だと言っているわけではありません。国と言う概念があって、社会と言うものがあって、そこで生きていく以上、ある程度の人生のレール(規範)は必要かもしれません。みんなが同じレールの上を歩いていれば、なんとなく幸せになれそうな気がするのも理解できます。
では何故、みんなが敷かれたレールの上を歩いていれば、なんとなく幸せになれそうな気がすると思うのかという疑問が出て来ます。
それは、実は幸せになれる保証なんて何処にもないからではないからです。そして僕たちは多数派の意見をついつい正しいと思いこんでしまう習性があります。
だから、一流大学を出ないと就職できないとみんなが思い込めば、幼稚園から高校まで、受験戦争で戦える戦士を育てることを重視します。でも、実際は一部の企業の話で全てではないわけです。これからは英語が世界の公用語だとみんなが思いこめば、みんな英語を勉強します。でも日本人同士が英語で喋っている場面なんて現実にはほぼ見かけません。これからは福祉業界が流行るとみんなが信じて煽って来ましたが、流行るどころか衰退しきってしまいました。
そう考えると、必ずしも敷かれたレールの上を歩いたら幸せになれるわけではないのがわかってくると思います。
他力本願
僕たちは、どうも幸せになる方法がわからず、迷走し始めると「これは政治家が悪いんだ!」とか「ま、誰か(国)が何とかしてくれるだろう」とか、我関せずになってしまいがちな気がします。
確かに国を幸せに導こうと思わない人が政治家(または公務員)になってしまうと非常に困ります。しかし、だからと言って、仮に自分が今現在、幸せになる方法がわからないとして、それを永遠に国の責任だけにしていて良いのでしょうか。他の可能性、考えなくて良いのでしょうか。
幸せは誰が教えてくれるのか?
深く考えないとなかなか気づかないのですが、実は幸せには責任が伴います。無責任な幸せというのは、もしかしたらあるかもしれませんが基本的に無いのです。自分の幸せを無責任に誰かに委ねてしまうのは、本当はとても危険なのです。
ここで重要な事に気づくと思います。幸せに責任があるとしたら、誰の責任なのかと言う事です。それは、言うまでも無く自分自身です。確かに、人は自分以外の人間の影響を大きく受けます。しかし、「だから私は幸せにはなれないんだ…」と人生を諦めてしまうのは自己責任です。人間は不平等です。お金持ちもいれば貧乏人もいます。外見が美しい人もいれば、そうではない人もいます。でも、不平等なのですが、平等に『幸せになる権利』は誰もが持っていると考えた方が良いです。誰も幸せ禁止令なんて出していませんから。だったら遠慮なく幸せになって良いのです。誰かが幸せにしてくれるだろうと他力本願でいるよりも、自分の責任ではあるけれど、自分の手で、どんどん幸せを掴んで行った方が良いのです。
少なくとも、今、この話を読んだ瞬間から「誰も幸せになれる方法を教えてくれなかった……」と嘆いている場合ではない事はわかってくださったと思います。