『ぼっち』って妖怪?
今でこそすっかり市民権を獲得している『ぼっち』という言葉。
初めて聞いたときは意味がわからず『ダイダラボッチ』の類だろうと思っていました。余計に意味不明だと思いますが、ダイダラボッチと言うのは日本の妖怪の事です。
いわゆる巨人なのですが、元々は山とか湖とか国とか、そういったモノを生み出した神様だったと言う説もあります。「なんだ、そりゃ!」と思うかもしれませんが柳田國男(有名な民俗学者)も興味を持って研究していたそうです。
でも、それはどうやら違うみたいでした。『ぼっち』というのは『ダイダラボッチ』という妖怪の事ではなく『ひとりぼっち』の略語だそうです。
一人で食事を摂る事を『ぼっち飯』、クリスマスに一緒に祝ってくれる人がいない事を『クリぼっち』と言うそうです。
この『ぼっち』という言葉、妖怪でこそありませんが、どうもまったく関係ないかと言えば必ずしもそうではないようです。
というのも、この『ぼっち』という言葉は良い意味合いでは使われていないようなのです。妖怪と言えば、人間社会の裏側で、人間とほとんど関わることなく静かに暮らしているイメージです。
『ぼっち』もそれに近い認識だと思います。
単に一人でいる人という意味ではなく孤独な人。友達がいない人。協調性が無い人。
具体的な定義こそ無さそうですが、どうもそう言ったネガティヴな意味合いが含まれているように感じます。
妖怪が基本的に人間と交わらないのと同様に、異質な存在のような扱われ方をしているように感じるのです。
ただ、ここで強調しておきます。
『ぼっち』は人間であり、異質な存在でもなければ差別の対象でもありません。そういう選択をした人たちもいる。そんなふうに解釈できたらと思います。
『ぼっち』の何が悪いのか?
今でこそ『ぼっち』の肯定派も出て来ましたが、それでも彼らのイメージはまだまだ異質な存在のままです。
では何故『ぼっち』は悪いイメージなのでしょうか。その背景にはどうやらある価値観が僕たちの中に定着しているからだと言えるでしょう。
それは「私たちは、つるんでナンボ」という考え方です。
確かに仲間はいた方が良いです。それは間違いないです。仲間のいない人生なんて考えたくもありません。いつも自分の周りに人が集まってきたら、とても人生が輝いているように感じるかもしれません。
人間は単体で生き抜く動物ではなく、社会性を重んじる動物です。そう考えると『ぼっち』という存在は社会不適応のような気もしないでもありませんし、異質に思えてくるかもしれません。
ただ、そこには大きな落とし穴があります。では『脱ぼっち』して誰かとつるみ出せば人生は好転するのかという点です。決して誰かとつるんでいるから幸せとは限りませんよね。
属さないと不安になる社会
たとえば僕は飲み会と言うものがあまり好きではありません。仕事の後に飲み会。イベントの後に飲み会。ボランティアの後に飲み会。なんでも理由をつけては飲み会をしたがる人たちがいます。僕も理由をつけてはお祝いするタイプの人間なので、彼らの気持ちはとてもよくわかります。
しかし、それを義務付けられてしまうと楽しくない人はやはり楽しくないのです。義務付けとまでは言わずとも、暗黙ルールで「参加するのが当たり前」が出来上がっているとしたらその時点でアウトです。「いやいや。参加することに意義があるんだよ!」「みんなで分かち合うきっかけとして良いじゃん!」という言い分はもちろん理解できます。まさにその通りだと思います。ただ、人にはみんな事情や都合があると言う事も決して忘れてはならないのです。