日本に留学していたイタリア人で大学生の友だちがいます。
彼は日本語、私はイタリア語を学べるということで、時間を見つけて時々集います。彼とは世代も違うしイタリア人からみた日本がどう見えるか興味津々です。
彼「日本は、食べ物が美味しいし、美しい。人はとても親切だった。びっくり!」
私「そう。」
彼「ただ、最後の最後に近づけない透明な壁がある。わかる?」
私「透明な壁ね、わからなくもないかな。」
ちなみにこの時点で彼が日本で感じた透明な壁の正体を、「気を使う」という日本独特の感覚を指しているのかもなと思っていました。
彼「ほかの国のともだちとは将来の夢とか色々と話し合えたけど……。日本の友だちとは、軽い話はしたけど、真剣な話があんまりできなかった。」
イタリア人の彼が日本人だけに感じたこの「透明な壁」について、何だかもっと知りたくなりました。そこで、彼に具体的にはどんなことがあったのか色々と話を聞いてみることにしました。
あるエピソードを話しはじめたとき、彼の表情から戸惑い・困惑を感じました。
彼「わぁーイケメンって、スターでもないのにはしゃがれる。なんかおかしい。」
私「なるほどね。イケメンって悪い意味ではないんだけどね。念のためね」
彼「意味は知ってるけど。イタリアでは友だち同士で面と向かってイケメンとは言わない。本気で付き合うなら、なおさら言わない。」
私「どんな感じがしたわけ?」
彼「透明な壁みたいに、遠かった。」
彼の表情がもっとも悲しいそうになった瞬間でした。
その友だちがどんな気持ちでそう接していたのかわからない以上、ここからは私の推測ですが。
この透明な壁の表面上には、得体の知れないものと正面と向き合うときの「めんどうくさい」という感覚や、「恥ずかしい」という気持ちがあるのではないかと感じたのです。
日本では表面上の人脈をそつなく、波風立てずに楽しめる人が面倒くさくない人であり、世間でも恥ずかしくない人であり、その「和」を崩すような人は煙たがられる傾向にある様に思います。
「恥ずかしい」とか「めんどくさい」という気持ちのさらに深層には、人と真剣に向き合うことに対する傷のようなものが潜んでいます。
独創的で人と違っている部分や美しく輝く部分は、無意識的にそれぞれの内面に抑圧され、その抑圧が痛みであったこもすでに忘れさられてしまっているのです。
彼はその悲しみを感じとったのかもしれません。
私「わからなくもないかな。その透明な壁を越えたあとが、面白いのよ。越えるまではちょっと大変なんだけどね」
彼「えーっ、本当?知らなかった」
彼の顔がパァっと明るくなったのでした。
プロコーチと体験する現実とダンスする極意
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