植物は感じている〜植物は今ここにある全てを感じています〜

植物は愛そのものです。 ただ、愛でいることだけをしています。 私たちは愛されて、今ここにいます。

 

「植物は、あるがままの自分を現すことをしたいのです。飾らず、虚栄もなく、 自分の中に湧き上がる命を楽しんでいるのです。」

人は古代から、植物によって生かされてきました。
私たちが息をすることができるのも、植物が酸素を生み出してくれているからです。
植物の繊維から頂いた服を着て、布の色も植物から染料を得てきました。
樹木の体から頂いた木で家を建て、植物を食べて生かされています。
私たちがいただくのは野菜だけでなく、牛や豚もいただきますが、それらは草を食べて体を作っているように、私たちの体を構成している主なものは植物です。また、植物から頂いた紙を使って様々な仕事をこなしたり、薬もまた植物から得るものでした。
人が生きる上でなくてはならないものは植物です。

植物は気前よく自分の体を私たちに捧げてくれています。
文句一つ言わずに数千年も与え続けてくれています。
植物は愛そのものなのだと感じます。

あるがままに全てを受け入れ、
ただ愛でいることをしている。
そんな植物に、心からの感謝と尊敬を感じずにいられません。

以前、バクスター実験が世間を騒がせたことがあります。
嘘発見器をつけたドラセラが、犯人を知っていたことが話題になりました。
誰がやったかわからないように、数名がドラセラのある部屋に入り、
そのうちの一人がドラセラの葉をむしって切り刻んだのですが、
そのあと、一人づつ部屋に入った時に、
葉をむしった人に対して、ドラセラは激しい反応を現わしたものです。
植物は記憶しているということが話題になりました。

記憶しているとも言えると思いますが、
ドラセラは、葉をむしって刻んだ人の中にあった記憶を
あるがままに感じ取って、痛みの反応を起こしたのだと思います。
植物が恐れの反応を現す存在だとしたら、
人間が起こした戦争に恐れを現し、種を芽吹かせることなく眠りに入ってしまうかもしれません。

今ここで痛みを感じている人がいるとしたら、
その人の痛みに対して、痛みを感じると反応しますが、
痛みはここにないけれど、その人が過去の痛みを思い出しているとしたら、
やはり、その痛みのエネルギーに反応するのだと思います。

植物には過去や未来といった時間の認識はなく
今この瞬間しか存在しないのだと思います。
今この瞬間、感じているものそのものになるのだと思います。

もしも植物が、これまで人間が植物に対してしてきたことを記憶しているとしたら、今ここに自然はなくなっているかもしれません。
あるがままに今この瞬間感じるものだけになっているからこそ、
人間がこれほどまでに自然を破壊してきているのに、
植物はただ、自分自身の命を表現することだけにエネルギーを注いでいるから、
自然はいつも溢れんばかりに湧き上がってくるのです。

植物は、あるがままの自分を現すことをしたいのです。
飾らず、虚栄もなく、
自分の中に湧き上がる命を楽しんでいるのです。

 

「与え続けてくれる植物に私たちがお返しできることは、植物に意識を向けることです」

自然はかけがえのないものです。
物は何度でもいくつでも作り出すことが得きるかもしれないけれど、
人が自然界を作ることはできません。

私たちは自然界に生かされています。
自然が失われたら、私たちも生きていくことができません。
惜しみなく自分の命を与え続けてくれている自然界に
私たちは感謝することなく、さらに奪おうとしていないだろうか?
もっとも大切にしたいものは自然です。
自然を軸にして、私たちは暮らしを考えることをこれ以上遅らせたくありません。

植物は感じています。
人が自然を敬うことを忘れたなら、
自然は力を失っていきます。
私たちは自然の一部です。
植物は私たちの関心に反応します。
人が自然は素晴らしい、美しいと思うなら、
植物はそれに答えます。

与え続けてくれる植物に
私たちがお返しできることは、
植物に意識を向けることです。
植物は感じています。私たちの思いをそのままに。
自然は素晴らしい、かけがえのないものだと私たちが思うなら、
植物はあるがままを感じ、そうなります。
木を植えたり、植物を植えたり
素晴らしい活動をされている方々に心からの感謝を捧げます。

 

「植物は本当に素晴らしい存在です」

人は目で見て、耳で聞いて、鼻で嗅いで、口で味わい、手で触れます。
植物に私たちのような五感を感じる部位が見つからないけれど、
植物にとって、全身が目であり、耳であり、鼻であり、口であり、手なのです。
私たちの体のような限られた部分でのみ感じるやり方ではなく、
植物は全身でそれをしています。

音楽をかけると野菜が大きく育つのは、
音楽を聴くとともに、自分たちに音楽を聴かせたいと思う愛情を感じています。
朝日を見る目がなくても、朝日とともに葉や花が開き、日没とともに葉や花を閉じていきます。
ツルは、やみくもに支えになるものを探しているのではなく、どの方向にツルを伸ばすと良いかを見ています。
根は水のある方向を知っていて、触手を伸ばしています。
種もまた、間違うことなく根を伸ばす方向と、芽を出す太陽の方向を知っています。
子供の頃に遊んだ触れると葉を閉じるオジギソウは、風が強く吹いて葉を揺さぶってもその葉を閉じません。
閉じるのは人が指で触れた時だけです。

植物は全身が感覚器官です。
その感覚は人間の感覚をはるかに超えています。
植物は本当に素晴らしい存在です。
植物は今ここにある全てを感じています。

植物は愛そのものです。
ただ、愛でいることだけをしています。
私たちは愛されて、今ここにいます。
今までもずっとそうでした。
人が自然に対して行ってきた全てをあるがままに受け入れながら、
それでもなお愛のままでい続けてくれる存在です。
あなたはあるがままに愛されています。

 

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