≪ 何をゆだね、何を決める? ≫
スピリチュアルなアドバイスのなかで「ゆだねましょう」というメッセージがあるいっぽう、「決めましょう」と促されるケースもあるので、何を「ゆだねる」ことが大切で、何を「決める」べきなのかがわからないといった複数のお声があったことから、前回(PART.45)はこれについて深めてみました。
その内容を整理してみますと、
●ゆだねる
・動かさずに動く
・ガイダンスに<のみ>従う
●決める
・あり方を決める
・人生を明け渡すことで目を覚ます生き方を選ぶ
ということでした。
「自分で決めて自分で動かす」というのは自我(エゴ)の好むやり方で、そういうスタンスで行うあらゆる「幸せになるための努力」とは、実は人生をコントロールしようとして躍起になっているだけのことであり、その生き方で真の幸福を受け取ることはできないのだと述べました。
そして「あり方」以外にも決めることがあるので、今回はその続きを書いていきます。
≪ 二つめに決めること ≫
あり方(人生をゆだねるか否か)において「ゆだねる」ことを決めたならば、ガイダンスに沿って生きることになります。
だから物事の一つ一つを「自分で」決める必要がありません。
決めようとしなくても「決まっている」ということがわかるはずです。
ガイダンスというのは示唆の形でもたらされることがほとんどで、見落としやすいかもしれませんが、命令や強制ではないのだから、威圧的にもたらされるということは決してありません。
こちらが「気づく」、「受け取る」意志を持つことが大切です。
そしてガイダンスがやって来たら、「その通りにするかしないか」を「決める」ことができます。
これもわたしたちに任されていることです。
無視してもいいし、その通りにしてもいいのです。
二つめに決めることは、「ガイダンスに従うか否か」ということ。
従わない——別のことをするか、もしくは先延ばしにしておく——ことによって何を選んでいるかと言うと、「エゴに従う」ということなのです。
もしこの状態でい続けるならば、やって来るメッセージは「決めましょう」という内容になることでしょう。
一つめに決めるべきことを、決めていないからです。
≪ 決めれば決まる ≫
つまり「人生を明け渡す」ことを本当に「決めた」ならば、もうそれ以降、何かを「自分で選択しなければならない」場面に遭遇するということはなくなるはずなのです。
なぜなら決めなければならないことは実のところたった一つで、「ゆだねる」ことを決めれば、すべてが決まるからです。
何も思案する必要がなくなるし、葛藤が起こるなどということはあり得ません。
「ゆだねましょう」と「決めましょう」というメッセージは矛盾しているのではなくて、全く同じことなのです。
「ゆだねているのに決めなければならない状態にある」ということはあり得ないことで、本当にゆだねているのならば、すべてが決まっている道を、安らぎとともに歩むのみです。
この世界(エゴの世界)のなかでの、あらゆる選択肢のうちから「正解」を探そうとすることが無意味であることは言うまでもないことで、根源的な選択——人生と「自分」自身をハイヤーセルフ(高次の自己)に明け渡すか、エゴの欲求のままに「自分」という偽物のアイデンティティを死守するために人生を動かそうとするか——を「決める」、それが「本当の選択」、「たった一つの選択」です。
≪ 真にゆだねるあり方を ≫
ところで、ゆだねる人生を選んでいない人のもとにも、実はガイダンスがやって来ています。
それが途切れたことは一度もありません。
ピンと来ない場合は、受け入れる気がない時間(エゴに従っていたい時間)が長かっただけのことです。
あるいは、ふとしたひらめきなどがガイダンスだったとは気づいていなかっただけです。
わたしたちは、まだ実はゆだねていないということを——つまり怖れているということを認めなければなりません。
都合のいいところだけガイダンスの通りにして、都合の悪いところ(実はここがブレイクスルーの大きなポイント)は先延ばしにするというあり方は、まだちっともゆだねていない生き方なのです。
それでもかまいません。
そのような自分を責める必要はないのです。
誰もがそうして本来持つ必要のない葛藤を抱きながらも、いずれは必ず、「真にゆだねるあり方」で生きていけるようになります。
とてつもない怖れを抱くようなことと出くわしたら、その時こそまさに「決める」時なのです。
ここでまた逃げてもよいけれども、怖いほうを選んでみてください。
人生に「正解」などありません。
それとなく示された道——本当はこちらが真の幸せにつながっているのだと、心のどこかで気づいているほう(つまり「うすうす」わかっているほう)——を、信頼と確信を抱いて選びましょう。
何が起こっても大丈夫です。
「ゆだねる」ことは恐ろしいことではなく、「自分」の枠を超えること(たくさんの人々との心のわかち合い)によって、ただしずかな喜びに満ちていられるあり方なのです。
その生きる姿勢を全面的に反映し続けていきたいと思います。