「オマエさん、また逆走してるだろう?」
そう言ったのはラファエルでした。
「ん?そうなのかな???」
ラファエルの投げかけを元に、しばし考察してみましょう。
エロスには独占的願望が強く含まれているため、当然ながら嫉妬も芽生えます。
そんな嫉妬心や独占欲、または自分さえよければ……という葛藤を乗り越えラブになるのだろうと思います。
自分だけではなく相手の幸福を願うラブ、すなわち愛。
その愛を博愛まで拡大し無償の愛として降り注ぐものがアガペーなのでしょう。
しかしこれは究極の理想論なのかもしれません。なぜなら「無償の愛」は嫉妬心や独占欲を一切排除し、どこか自己犠牲すら伴うものです。
アナタさえよければ私はどうなっても構いません。
いやいや、そんな簡単に割り切れるものではないでしょう。
誰だって多かれ少なかれ、与えた愛に見返りを求めて当然なのです。
受け取ることを強要し、尚かつ身勝手に与えたものと同等、またはそれ以上の見返りを期待するのがエロスとするならば、互いに同じくらいの思いを交換するものをラブと呼ぶのかもしれません。
あくまでも私の主観でざっくりと言い換えたならば……。
「私だけが幸せであれ」がエロス。
「アナタが幸福であれば私は何も望みません」がアガペー。
「アナタと私、同じくらい幸せ」がラブなのかも?
だとすると、私の作った「友達定義」はこれらのどこに該当するのでしょう?
先にも書きましたが、私個人、人は誰しも与えた愛に見返りを求めて当然だと思っています。
しかし見返りを得るために愛を与え続けていれば、必ずどこかで破綻するものです。
だから人って切ない、だから人って苦しい。
しかし切なさも苦しさも人だからこそ……。
見返りの一切を捨て去ったとしても、人はいろんな場面で他者に期待をします。
見返りが欲しかったわけじゃないのに、他者にかけた期待が思い通りにならなかったときの絶望感は一体なんなんでしょう?
私はあるときから「期待すること」をやめました。期待こそが絶望の始まりだと感じたからです。しかし期待は日常のあちこちに転がっているものです。
期待しないでいる方が無理なのかもしれません。
そこで私は期待する代わりに「祈る」ことにしました。
どういう過程と結果であれ、それがその人にとっていつか最善だったと感じられますように……と。
「だーかーらー!そこがオマエさんの思考の振り幅がでか過ぎるとこなんだよっ!」
「だってーラファエルー!期待するより祈っている方が相手にとっても私にとっても楽じゃんよぉ?」
「あのな、人は期待されたいし見返りも欲しいの、それはわかるだろ?」
「わかってますよ、別に否定してないじゃん。」
「オマエさんは期待もしない、見返りも求めない、でも自分が勝手に好きならそれでいいと考えてるんだろ?そういう定義でいるんだろ?」
「そうなるのかな?」
「じゃあさ、オマエさんに期待されたい、オマエさんから見返りが欲しいって思っている人はどうすりゃいいんだ?」
「えぇ?!やだ!そんな相手、面倒くさい……。」
(ゴツン!!) (いたたたたた……)
「そこが問題だっつーの!それじゃちっとも相手と同等じゃないじゃんか!!」
うーん、エロスとアガペーはなんとなく理解できるのに、ラブがまったくイメージ出来ない私……。
ラファエルにゲンコツされた頭を掻きむしりつつ、ふと「そもそも好きってなんだろ?嫌いってなんだろ?」という新たな疑問が浮上してくるのでした。
(PART.2へ続く)