中村うさぎさんコラム「どうせ一度の人生・・・なのか?」part.9 私は尊厳死肯定派である

尊厳死、それは「どこまでが人間なのか」さえも問うこと。病を得て死を経験した中村うさぎさんが尊厳死を考える。

前回、「尊厳死」についての私の意見を書いた。
言うまでもなく、私は尊厳死肯定派である
人は自分の人生をどこで終えるか自分で決めてもいいじゃないか、と思うからだ。

認知症になった時、尊厳死はどうなってしまうのか?

だが、ここにひとつの問題が生じる。
どこまでを「本人の意思」と考えるか、だ。
たとえば、認知症の家族を介護した人間が「自分もいつかあんなふうになってしまうのなら死んだほうがマシだ」と考え、もしも自分が認知症になって理性も判断力も失ったら尊厳死させて欲しい」と希望したとする。
それはまぁ、もっともな希望である。
認知症の患者は「人間の尊厳」が著しく損なわれるからだ。

ところが、いざその人が認知症になった時、「死にたくない」と言い出したらどうするのか。
認知症によって判断力が失われているのだからその訴えは無効とするのか。
しかし、目の前で「生きたい」と訴えている人間もまた、理性を失っているとはいえ、ひとりの人間として「生きる権利」を有するのである。

認知症という病は、その人の人格も価値観も変えてしまう。
ある意味、「別人」になってしまうのだ。
別人になってしまった以上、以前の人格が望んだ「尊厳死」を「私はそんなこと言ってない。それは私じゃない」と拒否することは充分にあり得る。
なにしろ自分が尊厳死を求めたことすら記憶にないのだから。
その場合、人格が変わる前の彼(または彼女)を「本人の本来の人格」と考えるのか、現在の彼(または彼女)を「本人」と考えるのか、難しいところである。
しかし、実際のところ、「本来の人格」「本当の私」など存在しない。
「アイデンティティ」というのは、あくまで我々の幻想なのだ。

打ち合わせ中の中村うさぎさん

打ち合わせ中の中村うさぎさん

尊厳は理性が生み出した幻想に過ぎない

おそらく、この場合、「現在の本人」の希望を優先して、かつて本人が希望した「尊厳死」は無効となるであろう。
目の前で「生きたい」と訴えている人間を殺すことは誰にもできないからだ。
そうなると、まだ理性に支配されていた頃に本人が望んだ「尊厳」とは何だったのか、ということになる。
しょせん、「尊厳」などというものも、理性が生み出した幻想に過ぎないというわけだ。

「尊厳死」の問題は深い。
それは「どこまでが人間なのか」を問うことでもあるからだ。 

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