東洋医学は「垂れ足」も体全体の問題と考える
現在、私を悩ませているのは「左足の麻痺」である。
左足の甲が上に持ち上がらないので、いわゆる「垂れ足」状態となり、うまく歩行ができない。
スリッパなどを穿いても脱げてしまうし、躓きやすくて恐くて仕方ないのだ。
さっそく、その症状を川嶋氏に相談すると、
「なるほど。総腓骨神経麻痺ですね」
「ソウヒ? 何ですか、それ?」
「膝の外側を通って下肢に向かってる神経で、ここが麻痺すると垂れ足になるんですよ」
「ほほぅ。これって先生なら鍼で治療してくださるんですか?」
「まずは診察して、どこに施術すればいいのか、漢方薬や気功との併用はどうかなどを判断します。東洋医学の診察法は、まず質問をいろいろします。食欲はあるか、冷えはあるかなど、足に直接関係ない事も訊いていきます。それから舌を診て、脈を診て、お腹を触ります」
「足の麻痺なのに舌やお腹を診るんだぁ」
「舌やお腹の状態で、身体全体がどんな状態なのかがわかるんです。そこから治療法を考えていくわけですが、たとえば鍼を打つにしても、足に打つとは限らない。反対側の手に打つかもしれないし、頭の天辺に打つかもしれません」
「へぇ~!」
まぁ、確かに人間の身体はパーツパーツに分かれているのではなく、全部繋がっていて影響し合ってひとつの状態を作っているのである。
症状が足の麻痺であっても、それは身体全体の問題なのだ、という発想だろうか。
東洋医学の身体観は面白い。
「とりあえず早急に症状の改善を図る」という西洋医学に比べ、身体全体の気や水や血の流れを変えて体質改善していこうという東洋医学は、まるで長江の流れのようにゆったりとした印象を受ける。
医療とは単に命を救うだけのものではないのだ!
気の短い私には不向きだが、その世界観は魅力的だ。
それはおそらく、人間の身体だけの話ではない。
植物も動物も水も空気もすべてが混然となって地球というひとの環境を作っている、という包括的な感覚だ。
西洋的な左脳思考ではなく、より右脳的な世界観と言っていいだろう。
そうか、医学とは単なる科学ではなく、哲学であり世界観なのだな、と思った。
理詰めの科学的思考に偏ると失ってしまう直感や閃きを、東洋医学は維持している。
それは言うなれば「心と身体が一体となった医術」だ。
「気功なんて効くわけがない、プラシボ効果だろうと言う医者がいます。そういう人に、僕は言うんですよ。ええ、プラシボかもしれませんね。でも、プラシボで何が悪いんです? 患者さんの痛みや苦しみが楽になれば、それでいいじゃありませんか」
確かに、そのとおりだ。
たとえば末期癌やその他の難病のように手を尽くしても治せない病気であれば、やたら強い薬を飲ませて副作用で弱らせる西洋医学よりも、患者の心に働きかけて苦痛を和らげる東洋医学のほうが、ある意味、人道的と言えるかもしれない。
人間は遅かれ早かれ死ぬものだ。
どんな医学でも、それは避けられない。
ならば、強引な延命よりも穏やかな死への旅程を組むことも、医術に含まれるのではないか。
「医は仁術」とは、よく言ったものだ。
昔の日本人は知っていた。
医療とは単に生命を救うだけのものではないのだ、と。
「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以て志とすべし」(貝原益軒)
「人を救う」とは、必ずしも「生命を救う」ことだけに限定されるわけではなかろう。
安らかな死を迎えることも、我々にとっては大いなる「救い」ではないか。
川嶋氏と話していて、そんなことを考えた私であった。
小説家・エッセイスト 中村うさぎ
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