さて、「キツネの毛皮を着て稲荷神社に参拝して神罰が下るかどうか試してみる」というリクエストをユーザーの方からいただいて実行した私・中村うさぎであるが、あれから2週間くらい(もっとかな?)経ったと思われるものの、いまだ何事も起こらない。
お稲荷さんは私の悪ふざけに対して寛容だったみたいですね。
もしかしたら、キツネの毛皮を着てる私を見て「あ、同族だ!」と思ってくれたのかもしれない。
そんなわけないか(笑)。
ホラー映画などでは墓場で悪ふざけしたり死者の霊を冒涜したりした若者たちが酷い目に遭ったりするものだが、現実にそういう話はあまり聞いたことがない。
まぁ、だからといって「神様や霊なんかいねーよ」と言いたいわけではなく、いるかもしれないけど彼らは我々の倫理観や価値観を超越した存在ではないかと思うのである。
キツネの毛皮くらいで怒ったり、墓石に小便かけられたくらいで化けて出たりしないんだよ、きっと。
そういうことで祟られると考えるのは、人間の価値観だ。
そもそも「不謹慎」という考え方自体が人間っぽい。
人間の倫理観を神に当てはめるのは、ある意味、傲慢なのではないか。
以前、クリスチャンの佐藤優氏と対談した時、佐藤氏が「天国に行ける人間と行けない人間は、生まれる前から決まってるんですよ」と言ったので、私は強く反発した。
「それが本当なら、人間の努力には何も意味がないということになるじゃないですか」
「そうなんです。我々のやることに意味なんてないんですよ」
「でも、そんなのおかしい! 納得できない!」
「人間が納得するかしないかなんて、神には関係ないんです。神のお考えは、人間など遥かに思い及ばない価値観に基づいてるんです」
ほんとかよ!
と、その時は思ったが、後でよくよく考えてみると、これはなかなか深い問題かもしれない。
人間が一生懸命に生きるのは、べつに神のためではない。
自分のためだよ。
つまり、人間は自分のために生きていいんだ。
己の倫理観、己の信条に従って生きれば、それでいい。
神の目に私がどう映るかなんて考えてたら、私は自分でものを考えなくなる。
死んだ後に天国に行けるかどうかなんて、我々人間の知ったことではない。
天国に行くために生きるのではなく、今生きているこの世界をより良き場所にするために生きることのほうが大切じゃないのか。
死後の世界は神のものかもしれないが、我々の生きているこの世界は我々のものなのである。
「神の考えなんてどうせ人間には計り知れない」という言葉に無力感を抱いたから、私は反発した。
でも、その言葉を「現世で生きている間は自由に生きろ」という意味かもしれないと解釈すれば、無力感とは逆にやる気が起きるというものだ。
キツネの毛皮を着て参拝した私を稲荷神社のキツネ神が怒っているかどうかは私にはわからない。
もし怒っていたとしても、神罰が現世で下るとは限らない。
神社のキツネ神像は、私の頭上を越えて、遥か遠くを見据えているように見えた。
その目に映るものを知りたいとは思うが、神は決して教えてくれないだろう。
「さあ来い、神罰!」などと粋がってる私など眼中にないのだ。
神罰が覿面に下らなかったことで、私は逆に神へのリスペクトを抱いてしまった。
これでもし参拝の翌日あたりに転んで骨折でもしてたら、神なんて単なる「復讐鬼」じゃん。
そんな神を想定してる時点で、人間の浅はかさを露呈しているのだ。
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