なぜ、いじめはなくならないのか。私はその痛みを知っている〜〜キプロスのカズコより

いじめ
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昭和、平成、令和へ。時代が変わっても、なぜ人は人を傷つけ続けるのか。

私は、いじめられた側の人間です。ある日、クラスの子がいじめられているのを見て、「やめて」と言った瞬間から、今度はいじめの矛先が私に向きました。スカートをめくられ、図工の時間には版画の削りカスを机に投げつけられ、物は隠され、壊されました。

私が反撃すると、担任は加害者ではなく、私を叱りました。放課後、職員室で冷たい床に正座させられました。ある先生が「大丈夫か」と声をかけてくれたとき、私は「いいえ」としか言えませんでした。その先生は「帰りにアイスでも食べなさい」と100円をくれました。優しさのようでいて、でもそれで何が変わるのか……。

子どもながらに、胸の奥で何かが壊れる音がしました。担任は、成績の良い子には特別扱いをし、授業中の「自習」をその子に任せていました。小学生なのに。権力を持つ教師の小さな王国の中で、「標的」は簡単に作られていったのです。

ある体育の時間、私が少し横を見ただけで、突然すねを蹴られました。「声を出すな」と命じられました。私は心の中で思いました。これが平和な日本の教育なのか? 動くだけで罰を受ける。それはまるで、ナチスが人を動物のように扱ったあの光景と、何が違うのだろう。

私を支えてくれたのは、家で待ってくれていた猫の温もりと、祖母のやさしい手でした。それがなければ、私はとっくに限界を超えていたと思います。子どもの世界は、狭い。その狭い世界の中で「いじめ」は宇宙のすべてになる。逃げ場を失った心は、あっという間に壊れてしまう。

いじめは、子どもだけの問題ではありません。それを見て見ぬふりをする大人たちの問題です。そして、教師という立場にありながら「いじめの構造」を黙認する教育現場の問題です。

日本の学校には、まだ戦後の名残が根深く残っています。GHQの給食制度、清掃という「共同作業」、体育座り、沈黙の強制……。これらは一見「規律」を教えるようでいて、実は「服従」を教えているのではないでしょうか。

「上の言うことを聞け」「輪を乱すな」「目立つな」……。

そんな空気が、いじめの温床を今も作り続けています。現代では、いじめの舞台はSNSにまで広がりました。脳科学的にも、発達途中の子どもにSNSを使わせることは推奨されていません。オーストラリアでは16歳未満のSNS利用を禁止しています。

なぜ日本では、まだ無防備な子どもにインターネットの荒波を泳がせるのでしょう。私は思います。日本の教育は、子どもの個性を守る場所ではなく、同じ形に整える場所になってしまっている。それが「いじめ」をなくせない最大の理由ではないでしょうか。

子どもたちは、それぞれ違う。違うことは悪ではなく、美しさの証のはずです。学校の形を、もっと変えていい。給食や掃除に縛られず、授業はオンラインでもいい。放課後は地域が寺子屋のような居場所を作り、子どもたちが「自由に学び、遊び、生きる」時間を取り戻すべきです。老人にデイケアがあるように、子どもたちにも心のデイケアが必要です。

戦後80年。それでも日本の学校にいじめが根を張り続けるのは、過去を「美しいもの」として語り続けてきた大人たちが、その中の痛みを見ようとしなかったから。でも、もう目をそらしてはいけない。私たちはいまこそ、問うべきです。「この国の教育は、本当に子どものためになっているのか?」

いじめを語ることは、過去を掘り返すことではありません。未来を変えるための、告白です。私はその痛みを知っている。だから、もう誰にも同じ思いをしてほしくない。

「少年よ、大志を抱け」その言葉が、痛みの上に立ち上がる希望として、もう一度この国に響く日を願っています。

このお話はノンフィクションです。ありがとうございます。

国際占い師カズコ

追伸:小さな声が、社会を動かす力になります。







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