<人間に手入れされ、手折られることを望んでいる花や木だけが、人間のそばに生息しています>
「木々を扱う生業をしている者として、お庭の庭木の手入れも 理不尽なものと思っています。林業の間伐も 植林も人工のもの。庭木の美しさも 里山の美しさも 人間の感覚の美しさであって、それは自然でなく不自然。植物は人間界に寄り添ってくれているのに人間のする事は残酷ですね。寄り添って生きてくれてる事に感謝しながら、悲しいかな枠の中に入れる仕事をしている事をこの先もずっと終わりのない答えを探し続けていくんだろうなと思っています」
と、ブログの読者様からこのようなコメントをいただきました。
昨日メイン州に旅行に行った時、国立公園の雄大な大自然に感動しましたが、一般家庭のよく手入れされた花壇や芝生や、そこに何百年も生息している立派な木々の美しさにも、感嘆せずにはいられませんでした。
どこを切り取っても、とても絵になる絵葉書のような風景だったのですが、いただいたコメントを思い出して、この美しさは人間が感じるものであって、自然はそう感じていないのかなと、考えてしまいました。
けれど、その風景にある花も芝生も木々も、とても生き生きしていて、幸せそうだなぁと思ったんですよね。
「花や木には何かを見て『美しい』と感じる情緒というものがありません。この情緒を持っているのは人間だけです。それに、花や木は手折られても何とも思っていません」 と、ノンモさん。
「もしも、その花や木が人間に手折られるのが嫌だと思っていれば、人が踏み入ることのできない、未開のジャングルなどに転生しているはずです。人間に手入れされ、手折られることを望んでいる花や木だけが、人間のそばに生息しているんです」
<人間の美しいなと感じる情緒を、ポジティブなエネルギーとして花や木は受けて喜び、生き生きと育つのです>
なので、庭師さん、お花屋さん、林業についている方、ついていない方でも、切り花をいけたり、ガーデニングなどをされる時、ごめんなさい、とか、申し訳ないといった感情を持つよりも、きれいだなぁ、美しいなぁと思ってあげてほしいそうです。
その人間の美しいなと感じる情緒を、ポジティブなエネルギーとして花や木は受けて喜び、生き生きと育つのです。
同じ環境で、一方の植物に罵り続け、もう一方の植物を褒め続けると、罵られたほうは、どんどん萎れて枯れていくのですが、褒められたほうは、すくすくと育つという実験でも、その結果が出ていますよね。
これは、人に対しても、何事に対しても同じことが言えると思います。
何かを見て、かわいそうと感じることは、時代によって移り変わる世間体や習慣や思いこみなどの、人間の狭い価値観からであることが多く、神の視点から見れば、かわいそうな自然も物も人間もこの世に存在しないのです。
すべては、その経験を経て得られる、魂の成長を望んで生まれてきているわけですし、そもそも、かわいそうなものなんて、神が産み出すわけありませんから。
<一見かわいそうに見えるそのものの持つ、美しい魂の思いを感じ取ること>
かわいそうではなく、そこに美しさを見出すこと。
一見かわいそうに見えるそのものの持つ、美しい魂の思いを感じ取ること。
身の回りのすべてから、その究極の謙虚さを学ばせていただいていることを知ること。
自然や動植物の気持ちを知れば知るほど、人間が愛や優しさだと思っていたことさえも、傲慢に動植物を見下していることであったか、そして人間が、地球上のなにものよりも意識のレベルが低いかが、痛感できるようになっていくと思います。
それを頭ではなく、体感してハートで理解できたとき、恥ずかしさのあまり、涙が止まらなくなることでしょう。
そして、その恥じる気持ちと涙を優しく包み込んでくれる、周囲の物や動植物の、真実の愛のとてつもない深さを知るでしょう。
これが「地球語」なのです。
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