苦からの解放/「正語(しょうご)」~梵字画家と歩く仏教小径

ひとつの苦を回避するために違う苦を発生させる必要、ありませんよね。

【「つい、そういう表現をしてしまう」無自覚な言葉が出た時こそチャンス!】

「最近あたし、いじわるになった気がする」と母が言う。母、72歳の冬。

「や、もともと皮肉屋だし、けっこう言いづらい言葉をさくっと言ってたよ?」と彼女の自己認識の甘さを指摘したくなりましたが、ブッダの元で修行を積んできた私は「そんなあなたも私です」と心の中で3度唱え、母に愛と絆のほほえみを送りました。

そもそもどうしてこんな言葉が出てきたのかというと……

私の弟が結婚し、赤ちゃんができました。「弟の奥さんは今も仕事を続けているの?」と、何の気なしに聞いてみたら、「赤ちゃんができたって会社に話したら、すぐに辞めさせられちゃったんだって」と母が言うのです! その言葉を文字通り受け取った私は「え? そんなことってあっていいの? その会社、いったいどんな会社⁉︎」と、驚きました。その私の驚きっぷりに慌てた母が「ごめん。そうじゃないの。赤ちゃんができたって話したら、身体のことをすごく気遣ってくれて『休みなさい』って言ってくれたんですって」と、言い直しました。で、冒頭の言葉が母の口から出てきた、というわけです。

赤ちゃんができた→会社に伝えた→会社を辞めた

という出来事が、言い方ひとつで被害者や加害者を生んでしまうことになるとは。
私が最近ますます行間を読むことができなくなってきたことが幸いしてか、母は自分自身でそのことに気づき、修正をすることができました。

 

【それは事実か類推か】

苦しみから解放されるために実践する八正道(はっしょうどう)のうちのひとつに、正語(しょうご)があります。正語とは読んで字のごとく、そのまま「正しい言葉」のこと。

「正しい」という表現からは、なんとなく丁寧な言葉を使うという印象を受けますが、正語の正しさはちょっと違います。
ポイントは、正見にもとづき言葉を使うという点。正見にもとづくということは、憶測や類推を交えないということです。

赤ちゃんができた→会社に伝えた→会社を辞めた

この矢印の部分を憶測で埋めないで語ることが「正しい言葉で語ること」なのです。

私たちは、それぞれの体験にもとづき、異なった方法で事実を解釈・処理しています。その解釈が「自分なり」であることに気づかないのは、無自覚に行っていることが多いから。私たちが自覚している自分自身の意識は全体の0.3~7%でしかなく、それ以外の部分は自分では自覚していない自分なのです。あたかも正しいように思えるその見解、実は類推であったり憶測であったりしませんか? お互いの「自分なり」を押し付けあってしまうことが、争いや誤解の元となっているというわけです。

「諸行無常の真理にもとづけば、因と縁により、ひとりの人ですら瞬間瞬間に異なった見解を持って当たり前」byブッダ

「過去にそうだったから」とか、「常識で考えればそうであるにきまっている」といった観念を手放し、諸行無常を受け容れてしまえば「期待通りにいかなかった」「予想と違っていた」といった残念感も、わざわざ味わう必要はなくなる、というわけです。

 

【お断りのワーク】

最近私がしている、お断りのワーク。「正語」の鍛錬にちょうどぴったりです。

「ランチに行こうよ」「旅行に行こうよ」と、誘われた際に生じる私の心の中のモヤモヤを全部言葉にしてみると……