その言葉を聞いたとき、「えぇ!!! どういうこと!?」と思い、何日も何日も考えてみたり、今まで読んだスピリチュアル本や心理学系の本を読み返したりしましたが、答えが分かりませんでした。
この言葉は日本でも大ヒットしたベストセラー「第11番目の鍵―富と成功への扉をあける」や「「ザ・マネーゲーム」から脱出する法」の著者、ロバート・シャインヘルド氏がインタビューで言っていたことです。
その当時は全くその意味が分からなかったのですが、今なら理解することができます。
真実の私たちは、鼓動よりも呼吸よりも近いところにあります。
それは静寂で純粋な意識です。
何も語らず、一切変化することのない、永遠に今ここにある意識そのものです。
魂も潜在意識も集合意識とよばれるものも、すべてがこの純粋で永遠なる意識という基盤の中で繰り広げられている幻想です。
もちろん「私」「あなた」という存在も。
非二元(ノンデュアリティ)とは「なにも分かれていないこと」つまり、全てを生み出している私たちの真実の姿である意識そのものなのです。
私がガンガジやアジャシャンティ、エックハルトトールの教えを実践していくうちに、しみじみ感じたことは、人生そのものが自己探求なのだということでした。
それは食器洗いのような小さな日常までもが、人生の師(先生)そのものだということです。
自分磨きをするために、どこかに行かなくても、何かを求めなくてもよかったということです。
もちろん、したいなと思うことはどんどんしていけばいいのですが。
覚醒(悟り)体験をしたとき、この世界が幻想だということを体感したわけですが、思考(エゴ)はその体験を利用して私にささやきかけてきました。
結果、多くの体験者が陥る「この世界が幻想なら何をしても意味がない」といった、ブーたれた感覚、虚無感におそわれる時期も過ごしました。
覚醒体験をした友人は、「覚醒ウツ」という言葉でその状況をいい表していますが、まさしくそんな感じでした。
でも今は、幻想だからこそ、この命を大切に生きようという気持ちに変化しています。
それは私たちの本質である意識そのものが完璧そのものだからです。
完璧そのものの私たちの本質が、私たちが存在することに対して無責任であるわけがありません。
誰かを憎もうと、引きこもっていようと、笑おうと、決してそれにジャッジをせず、絶対的にそうする自由を与えてくれているので、ブーたれていても、何をしてもいいのですが、本質そのものに寄り添っていると自分が無条件に愛されている存在だということを感じるので、このストーリー(幻想)を楽しもうという気持ちになっていったのだと思います。
辛いな、空しいな、悲しいなと思うことはあります。
パートナーと派手な喧嘩もします。
でもそれが幸せであることにも気がついたのです。
悲しみながら幸せでいることができるのです。
苦しみながら幸せでいることはできます。
なぜなら幸せは見つけるものではなく、私たちの本質そのものが幸せだからです。
覚醒体験をして3年、一生、自己探求(人生をあるがまま生きる)は続きます。
でもようやく、このストーリーの中で何をしていきたいのかが明確になってきました。
やっと自分を生きられる、今はそういう気持ちでいる自分がいます。
次回は番外編として、2015年5月に世界的科学雑誌「Nature」に掲載された「観測されるまで現実は存在しない」ということと非二元の解釈やお伝えしきれなかった「目覚め」についてを出来るだけ分かりやすく書きたいなと思います。