旅立ちのタイミングの違い
若くして亡くなる命。これほどたまらないものはありません。
これからだったのに……。葬儀の時にはこの言葉をよく発せられます。思い起こしてみれば、クライアントさんや友人、自らの経験を振り返ると、タイミングもそのような時が多い気がします。
もうすぐ小学生だったのに。もうすぐ社会人だったのに。もうすぐ結婚式だったのに……。
人間の人生はたかだか100年ほど。その短い人生の中で様々な節目は多くあり、若い時は特に小刻みです。そして若いころは上り坂。人生の大きなイベントに向けて日々成長しています。ですから、若い命の旅立ちは、そのような節目に起きてしまうことも多いのかもしれません。
ある程度年を重ねてからは、終焉に向けての意識も高まり、周りも自分自身も覚悟を決めていきます。
最近では終活という言葉も定着してきました。また、身体の機能低下も著しく、その苦痛やケアの重みなどから、終焉を受け入れやすくなるのかもしれません。
こうして書いている私も、そろそろ残りの人生はという思いでの活動の仕方も増えています。あちこち身体も無理が効かない、明らかに若いころと違う衰えを感じる事も多く、その事からも終わりの日を迎えることを意識する事は多くなっています。
しかし、若い命の場合は、残された者も納得は出来ません。その命のこれからを夢に見て、それをサポートするがごとく、自身の時間も体力も金銭も、何にもまして愛を注ぎこんでいたからです。そして、その命を頼りにすることも増えているでしょう。
私も今年の春に娘が急死しました。
低体温症で、様々な症状に悩んできた娘を思うと、可能性が無かった訳ではないのですが、私自身も体調を壊していて、逆に娘を一人残す時の不安があり、何とか出来得ることを準備しなくてはと思っていました。
しかし、私ではなく娘が旅立ちました。
仕事を繋ぐ準備をしていましたし、私より有能なカウンセラーになれたと思えて誇らしく思え始めた頃でした。娘は一人娘なので、繋いで来た全てが意味の無いものになったと思ったものです。
若い命の旅立ちは、残されたものにとって言いようのない苦しみを与えます。遺族の命すら、生きる意味すら、失ったと言っても過言ではありません。
でも、スピリットとしての見地からするとそうではないのですね。魂は永遠。人間としての人生は舞台のようなもの。あるシチュエーションを演じているにすぎない。そして各々の役割を演じて旅立つのであるから、人生そのものの長さではない。そこには深い意味があるのだということ。
残されたものはそれを見つけて理解してあげる事が一番の供養ではないでしょうか?