中村うさぎさんエッセイ 「死から生への逆さま巡礼」 PART.3 我の消失

「死」とは救済でもなければ悲劇的結末でもない

死んで「私」という自我を失い、完全なる「無」となった体験は、その後の私にどのような影響を与えたのだろうか?

ひとつ言えるのは、以前よりも「死」を願う気持ちが強くなったことである。「死」が「私」からの解放であり、あんなにラクなものだと知った今は、少しでもイヤなことがあると「ああ、早く死んでしまいたい」などと安易に思うようになった。おそらく世間一般の価値観からすると、よくない傾向なんだろうなとは感じるが、これが本音なのだから仕方ない。

私が「私」であるがゆえに自意識に囚われ、他者との関係性に苦しみ、劣等感や自己嫌悪といった不快な感情に苛まれて生きていく……これが私の「生」の痛みであるなら、そこから永遠に解放してくれる「死」はまさに救済に違いない。

ただ、自意識のこじれや他者との関係は、必ずしも痛みばかりではなく、それと同等くらいの喜びや幸福感を私にもたらしてくれるのも確かなのである。たとえば恋の高揚感とか家族や友人と楽しく過ごす瞬間などもまた「生」の醍醐味であり、死して「無」になるということは、生きる苦しみと同時に生きる喜びをも失うことなのだ。

結局のところ、「死」とは救済でもなければ悲劇的結末でもなく、ただの終止符に過ぎない、と言えるのかもしれない。あらゆる苦しみも喜びも、そこで「プツン」と電源が切れた瞬間に、永遠に終わる。そして、それを「虚しい」とか「悲しい」とか「嬉しい」とか感じる「私」も、もういない。何も感じず何も考えない透明な泡となって、永遠の無に溶かされていくだけだ。

私に足りなかったのは、「生きる覚悟」

(写真)中村うさぎさんブログ「うさぎ的日常日記」
2014年3月7日「リハビリではこんなことやってるんだよー!」より

これを、いわゆる「無我の境地」と呼んでいいのかどうか、私にはわからない。不勉強にして、「無我の境地」というものがどんなものなのか理解してないからである。拙い知識の元に言わせていただけば「無我の境地」とは我執を捨てて平穏かつ安逸な境地に達することと思われるのだが、私の体験した「無」には「平穏」も「安逸」も存在しなかった。そういうものを感じる感受性自体が消え去るからだ。「平穏」など感じる時点で、そこには「我」が残っているではないか。「死」とは、それすらも感じない絶対的な「我の消失」であり完全なる「無」なのである。

したがって、私の体験した「無」は、仏教で言う「空」に近いのかもしれない。ただ、私は生きている間にそんな「死」の境地に達する必要性を感じない。苦しみと喜び、痛みと快楽にまみれて生きるのが「生」なのであれば、いずれ「死」の来たる前に、せいぜい存分に「生」を味わうがいい。生きながら死の境地に達して、何の意味があるのだ。死ねば嫌でもそこに達するのだから、生きているうちにしかできないことを体験し尽くすのが「生きる」ということの意味ではないか。

一度死に瀕して「生」に立ち戻った私は、「次は絶対に戻ってこないぞ」と固く心に決めている。が、生き残ってしまった以上は、以前の愛憎や欲望にまみれた「生」をこの身に引き受ける所存である。私に足りなかったのは、じつにこの「生きる覚悟」であったのだ。

小説家・エッセイスト 中村うさぎ

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