人生の困難をどのようにとらえるかで人生はがらりと変わる~『難事よき事』

悪い出来事もあなたの思考で大きくプラスに転換できる!

私たちは自分で計画して来た道を歩んでいます。
性質によっては早くゴールまで行き着く人、ゆっくりペースで寄り道しながらゴールを目指す人と、考えると、誰かが特別な良い思いをしているとか、あの人だけ幸運ではないということが分って来ることでしょう。
自分の人生で起こっている良いことも、悪いことも、すべて自分に必要な体験であり、その両方に意味があることも分ることでしょう。

良い出来事だけに意味があり、悪い出来事は無意味だと思うと、その悪い出来事から逃げたいために、悩みが膨らんで行く事もあります。
もちろん、悪い出来事の中には、今すぐに解決できない問題もあるでしょうが、その問題を自分で解決したいと願うか、他人に任せるかによっては、その後に起きる悪い出来事が重なりあり、不運に苛まれると感じることになります。
何事も悩みが小さいうち、対処できるうちに解決することで、不運が倍になって訪れることはありません。

自分がその悪い出来事から逃げたい一心で、負の連鎖を招いてしまい、気づいたときには最悪の出来事になってしまったということにならないようにして頂きたいです。

ある女性のことをお話しします。その方は若い頃は美しく、誰からも羨ましがられ、他人から見ればこれ以上の幸せは無いだろうと思える家庭を持っていました。しかし、その女性の心には自分の親からの呪縛から開放されることなく、自分がどのような家族、人間関係を築いても満たされることがありませんでした。
優しくしてくれる家族さえも遠のけるようになり、余っているお金を自分の寂しい心を埋めたいために湯水のように使い、挙句の果ては孤独死を選んでしまいました。
周りの人々は、そんな彼女の寂しい気持ちは分かったとしても、彼女自身の心に変化が訪れない限り、彼女の代行は出来ません。

私が好きな、道元師と中国の年老いた僧侶との会話のお話をご紹介します。
ある暑い日、道元師がお寺に帰って来ましたら、中国の年老いた僧侶がきのこを干していました。「きのこを干しているのですか?」と道元師が年老いた僧侶に訊ねました。
「はい。そうです。今のうちに干しておかないといけませんから」と僧侶は応えました。
「お見かけしたところ、六十を過ぎていらっしゃいますね。」と道元師。
「はい。いつの間にやら六十八になってしまいました。」と年老いた僧侶。
「では、お手伝い致しましょう。」と道元師。
「いいえ、結構です。これは私の仕事ですので」と年老いた僧侶。
「ここは大きな寺ですから、もっと若い雑仕にやらせたらいかがでしょうか?」と道元師が言うと、『他の者はわたしではありません。わたしがこれを遣らなければ、いつ誰がやりましょうか。いま、このときは、ここ以外にないのです』と年老いた僧侶。
その言葉で道元師は、『やっと気づいた。私は間違っていた。雑務など意味のない物だと、しかし、そうではないことに……』

私たちはいつでも、どこでも真理を求めて生きることができます。
何気ない他人との会話、暑い日の畑仕事、寒い中で働くこと、生きるなかで学び続ける機会を頂いています。
世の中には、パッと見ると悪い出来事に思えるようなことでも、あとになってみれば「それでよかったんだ」と思えることがあるものです。
人、それぞれの心がけ次第で、悪い出来事を悪い事として受け止めるか、これも精進の一つだと受け止めるかによって、プラスへの転換にできるかどうかは自分の心次第なのです。

神さまは、決して不公平ではありません。いいこと、悪いことをバランスよく人に与えて下さり、人生での学ぶべきことを導いて下さっています。
すべてに感謝して生きて行きましょう。
そう思うことで、「自分の人生は、意味のある人生であり、この先、何が起きても大丈夫だ」と思えるようになるでしょう。
そのように思うことで、前向きに生きられるようになれることでしょう。
ありがとうございます。