子供の頃に僕が本当に憧れていたのは正義の心ではなく圧倒的なパワーだったのかなと思います。
今も、もちろん欲しいと言えば欲しいですが……。
思い返してみると「正義は勝つ!」というイメージは誰の心の中にも少なからず刻み込まれていると思います。
しかし、正義だから勝つのではなく、勝つから正義なんですよね。
本当はそんなに単純な話ではないですが……。
タブーなのかもしれませんが、戦争ってそうですよね。
当事者はみんな自分を正義だと思っていますし、人によっては戦争という愚かな行為をしながら『聖戦』なんて読んだりする人もいるわけで。
何処が『聖なる戦い』なのか、さっぱりわからないですよね。
まさに「力こそパワー」みたいな意味不明なネタ的発想です。
普遍的力こそパワー?
子供といえば僕は子供と接する機会も多いです。
そして、子供たちを見ていると、どうも「力こそパワー!」的な子が多いように感じます。
というか、子供ってあからさまに喧嘩しますよね。
陰湿なイジメよりよほど健全ですし、人は痛みを知るからこそ優しくなれるという一面もあるので「喧嘩してはいけない!」とは思わないですし、むしろ子供のころにこそ経験して欲しいと思いますが。
単に正義とか悪とか関係なく、純粋な悪みたいなケースもあるにはあると思うのですが、喧嘩のほとんどが「○○くんは間違っている! 私は正しいことを教えてあげている!」という意味合いで気がつけば戦いになっているような気がします。
大人もそうなのですが、戦いの発端って大抵がそうですよね。
でも、ここで気をつけなければならないのが、本当に自分は正しいのか。自分の価値観や言動は正義なのかということです。
特に子供の場合、良くも悪くも純粋です。
プロセス抜きで「悪は裁かれて当然だ!」的発想になり、気がつくと過ちを正すと言うよりも相手を叩きのめして屈服させるのを目的としているとしか思えない子たちも少なくないように感じます。
相手を屈服させ、自分が優位に立つ快感。
ゲームならそれもアリですが、それを日常で当然のように繰り返されると、ものすごく怖いです。
まさに「力こそパワー」です。
彼らは決して自分を悪だとは思っていません。
むしろ正義の味方だとさえ思っています。
自分は正義の側だから「正義は勝つ」の理屈から言うと絶対に戦いに勝たなければならないのです。
喧嘩の仲裁を聞いていると、ものすごく困ることがあります。
喧嘩そのものが困ると言えば困るのですが、結局のところ、善悪だけでいうなら、悪いことをした人が誰かを怒らせて喧嘩になってしまうならわかるのです。
ただ、真剣に話を聞けば聞くほど、善である側の子(?)は、どうも過剰なほど攻撃的だったり、暴力的だったりしているような気がしてならないのです。
直ぐに自分の望む解決ヴィジョンに近づけず、次第にエスカレートして相手を追い詰めることを目的とするように思考が変化してしまっているのだとは思います。
最終的に「正義の味方こそ加害者」という不思議な構図になってしまうのです。
「じゃあ、どっちが悪いの?」と正義の子に問われると、僕は素で「君じゃないかな?」と言いたくなってしまったりします。
もちろん、そういう言い方は望ましくないですが本音として。
悪は何をされても文句を言えない。
悪は弱者であり、人権などない。
どうも、そういう無意識的な発想が僕たち人間の中には本能的に備わっている気がするのです。
僕たちは動物なので強くなければ生き残れないのも事実です。
本能は決して軽く考えるべきものではありません。
生きるためには強くあれ。
それは正しいです。
でも、「力こそ正義!」ではないということを忘れてはいけません。
相手を屈服させるパワーがあれば正義だなんて、間違っていますからね。
もっというと、正義でもなければ愛でもありません。
そんなものの先に未来なんてありません。
滅びの運命が待っているだけですからね。
いいですか。
「力こそパワー」はネタであり、ブラックユーモアです。
もし、本当に善人になりたいのなら、正義の味方になりたいのなら、力を手にすることは悪いことではありませんが、力をどう使うかを自問自答し続けて下さいね。
最後に、これもネタで締めくくろうと思います。
「大いなるパワーには大いなる責任が伴う!」
スパイダーマンに出てくる、ベンおじさんというキャラクターの名言です。
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