ココロセラピストが語る!「監視される社会」とは? ~監視されることに慣れ過ぎた僕たち~

監視社会

気がつけば監視社会になってしまいました。

一歩でも外に出れば至るところに監視カメラが設置されています。
どこもかしこも監視、監視、監視。

僕が子供の頃は監視カメラなんて、そんなに普及していませんでしたし、するとも思っていませんでした。
でも、気がつくと徐々に監視カメラは増え始め、今ではどこにいても監視されていてプライバシーなんてないのが当たり前みたな時代になってしまいました。

若い頃、監視カメラが巷にあふれ始めた頃、僕はどうも気持ち悪くて耐えられませんでした。
何故、善良な(?)市民が監視されなければならないのだろうか納得がいかなかったのです。

というと、「TATSUMIさん。逆ですよ。善良な市民を守るために一部の一定数いる危ない人たちが問題を起こさないように監視カメラは存在してるんですよ。つまり監視カメラは私たちを守ってくれているんですよ」という人も多いと思います。

確かに一理あるのですが僕はそれでも納得がいきませんでした。
だって大義名分こそあれ、結果的に市民全体がトラブルメーカー予備群と思われている気がしてならなかったのです。

 

後ろめたいの?

悪いことはしていなくても、やっぱり監視されると決して気分が良くありません。
「TATSUMIさん。何か後ろめたいことでもあるんですか?悪いことをしていないなら堂々としていれば良いじゃないですか?」と言われても、僕は、そういうことではないのだけれど……という気持ちになってしまうのです。

結局、監視カメラの裏側に誰がいるのか僕たちは知らない訳です。
その時点で気持ち悪いと思いませんか。
監視カメラの裏側にいる人が必ずしも僕たちの味方であり、守ってくれている人とは限らないという点も軽視すべきではありません。

では後ろめたく無ければ常に監視されていても平気なのかと僕は問い返したいのです。

昔の人は「悪いことをしちゃダメだよ。お天道様が見ているよ」ということをよく言っていました。
お天道様というのは、太陽のことですが、簡単にいうと神様です。

誰にも見られていないと思うと、つい出来心で悪いことをしたくなる場合もあるのかもしれません。
でも、誰も見ていないと思っていても、実は神様にちゃんと見られていて、悪いことをしているとそれなりにペナルティ(罰)があるよということです。
神様そのものではなく比喩だとしても、誰かに見られているという可能性は捨てきれないということは事実なわけですよね。

この言い回しの場合、監視者は神様であり、得体の知れない存在ではなく、むしろ有難い存在です。
だから神様が見守ってくれていると仮定するのであれば、なんとなく精神的に安心できます。
神様に直接聞いたわけではないので何とも言えませんが、神様は基本的に誰かに罰を与えようとしているわけではなく、慈悲深い眼差しで見守ってくれているのです。

 

「監視」と「見守り」

さて。「監視」と「見守り」という言葉が出て来たので、その話をしましょう。
言うまでもありませんが、監視と見守りはまったく意味合いが違います。

これは極めて重要な問題です。

監視カメラは、その名の通り「監視」を目的としています。
防犯的なイメージもありますが、一方でストーカー的な気持ち悪さってありませんか。

常に対象者の言動や個人情報をチェックしている。
場合によっては相手の落ち度や弱みを突いて攻撃するイメージがありますよね。
これは僕が決して悲観的というわけではなく、少なからずそういう印象ってあると思うのです。
だからその不気味さから相手の言動を抑止することもできるかもしれませんが、同時に精神的な自由を奪われてしまう気がしてならないのです。

もちろん誰も見ていなくても悪いことはしてはダメです。
でも、見張られているから悪いことをしないというのは、物事の本質を考えると、何か違う気がしませんか。