僕はイヤなヤツだった!
今にして思うことがあります。僕は人間に対しても、モノゴトに対しても、知らず知らずのうちに分析し、そして、どちらかというと批判的な発言をしていることが多かったような気がします。
「だからモテなかったのか……」と思います。決して今、モテているわけでもなんでもないのですが、過去の自分と比べたら幾分マシになったと思います。
人生においてストレスの殆どは人間関係だと僕は思っています。人は孤独では生きていけない生き物なのに、人と共存共栄するのも得意かと言えば決してそうでもないという矛盾を抱えています。
仕事にしてもプライベートにしても、あからさまに嫌われてしまうと事がうまく運ばなくなります。『嫌われる勇気』という言葉がはやっていますが、その勇気にはセットで『覚悟』や『代償』もあるのです。
この『嫌われる覚悟』も『嫌われるという代償』も考えずに、相手の立場を軽視していると、本当に嫌われてしまい、「ま、いっか……」では済まされなくなるのです。
場合によっては嫌われても仕方がありませんし、衝突を避けられない事もあるでしょう。しかし、わざわざ、嫌われる必要なんてないわけです。
つまり『嫌われる勇気』は大事ですが、『嫌われない工夫』もまた重要なのです。
そうとも知らず、僕は自分の知識や分析をひけらかし続けていました。
あらゆることに欠点を見つけだして批判という名のアゲアシを取っていました。
今考えると「僕は、自分の意見を持ってるんだぞ! スゴイだろ!」と相手に認めて貰いたかっただけなのかもしれません。
相手は真剣に僕の話を聞いていたのではなくて、実はウンザリして黙っていただけかもしれません。そう考えると、ゾッとします。なぜなら僕はやむを得ない場合を除き、わざわざ嫌われたくなんてありませんから。
評論したいのか、コミュニケーションをとりたいのか?
自分の意見を持つ事は大事です。これは僕自身、今も昔も変わらずにそう信じています。ただ誰かとコミュニケーションをとる場合は、自分の意見を持っていたとしても、自分なりの分析や評論めいた発言をすれば良いわけではありません。
相手が「君の話はとても興味深い! もっと聞かせて!」というような感じであれば、自分の鋭い分析眼で、あれよこれよとバッサリ切って評論するのも良いと思います。
ただ、そうではない場合は自分は相手とどんなコミュニケーションを取りたいのかを一旦、深呼吸をしてから考える癖をつけた方が良いです。
というのも会話ってキャッチボールなのです。なのに一方的に「○○は××だ!」と断定して終了してしまったら、ボールの投げっぱなしと同じなのです。しかも、自分が納得するまで喋ってしまったら、それこそ迷惑行為です。そんなのコミュニケーションではありませんよね。
または「君は○○だから……」というレッテルを貼り、相手に自分が求めるキャラクター像を半ば強引に押し付けて話を進めるのも嫌われます。自分なりに相手のキャラクターを分析して、的確にコミュニケーションを図ろうと思っているのかもしれませんが、これは失礼以外の何物でもありません。
「君は知らないだろうけど(俺はスゴイことを知ってるんだぜ!)」とか「君はオタクだから」とか、そういう目で相手を見てしまうと、結局自分が主導権を強引に相手から奪い取ってマイ・ワールドを展開するだけになってしまいます。
コミュニケーションを目的とするのなら、違った視点が必要になってくるのです。