でも、不思議とそれ以降の何かに関しては「危ない」「どうせ無理だよ」と案外否定的な事を言いだす事が増えると言う現象が起きます。
ちなみに、もしもこの時期に「どうせ出来ない」とか「やめなさい」という事を言うのが口癖の親がいたら、正直、その子の将来は不安です。せっかくですので、存分に応援してあげて欲しいと思います。
そんなの記憶にないから参考にならないと思う方もいるかもしれません。では自転車を思い出してみて下さい。大人になってから練習する人もいますが、多くの方が子供の内にある程度は乗れるようになっていると思います。この頃の記憶は比較的残っているのではないかと思います。
自転車に乗れるようになったら、徒歩の何倍も速いスピードで長距離移動できるようになります。カゴや荷台がついていれば、重い荷物だって運べます。何よりも、お隣さん以外との人間関係も作れるようになるのです。隣の町内の友達と遊べる自分。そんな未来の自分に憧れて、それこそ人によっては血まみれになりながらも自転車を習得してきたわけです。
そういえば小学生の頃、自転車に乗れない子がいました。自転車に乗れないから劣っているとは思いませんでしたが、どうして彼は自転車に乗ろうと思わないのかずっと疑問でした。
本人に聞いて見たら「親が必要ないと言うから……」と言っていました。どうも腑に落ちなくて、僕は思いきって、彼の親にダイレクトに聞いてみました。
「どうして○○くんに自転車を教えてあげないんですか?」
すると、こんな答えが返って来ました。
「うちは一人っ子だからね……。自転車に乗ることで何かがあったら困るから…」
この言葉は小学生だった僕にとってでさえ、とてもインパクトがありました。確かに我が子が可愛いのは親として当然でしょう。怪我や事故もできれば無い方が良いでしょう。でも、一人っ子と自転車に乗れない方が良いという因果関係がさっぱりわかりませんでした。よくわからないので、自分に当てはめて考えてみました。
「僕は一人っ子じゃないから、自転車に乗っても良い。つまり、僕が事故に遭っても死んでしまっても変わりがいるから問題無い……?」
そういう結論に達しました。子供ながらに、兄弟姉妹がいることによって、自分と言う人間の命の価値が下がって見られてしまうものなのだろうかと考えたら背筋がゾッとしました。『※綾波レイ』じゃあるまいし。今の話は典型的なドリームキラーです。
話を戻して、僕たちの多くは、そうやって、あまり鮮明に覚えていなくても、それなりに危険を乗り越えて自分自身を変化させてきたのです。
そして人はそれを『成長』と呼びます。より人生(QOL)を高めるための変化の事です。
私、本当はどう変わりたかったんだろう?
ちまみに僕は自転車に乗れるのは当然の事だとか、自転車に乗れない人は変だとか、そういうつもりは一切ありません。小学生の頃は「何で自転車に乗れないんだろう?」と思っていましたが、それはあくまでも僕の個人的な価値観にすぎません。ドリームキラーに道を閉ざされた人もいるかもしれませんが、本人自身にとって本当に必要が無ければ「自転車に乗れる自分」に無理になる必要はまったくないのです。
『なりたい自分』や『わかりたい自分』は、幅が広いです。自転車に乗れる自分も良いですし、アイドルになる自分でも良いです。優しい自分になりたいとか、もうちょっと硬派な自分になりたいとか、何でも良いです。
ただ、注意点があります。どんな自分に変わりたいと願っても良いですが、自分以外の誰かになる事は出来ないと言う事です。そして、「ありのまま」と関連して来ますが、「自分らしくない」ものには基本的には変われません。
たとえば。「英語ペラペラな自分に変わりたい!」と願ったとします。でも、それを本心から望んでいないとどうなるかというと、結論から言うと辛いです。
変化は苦痛を伴う場合が多いです。あなたの人生の大切な時間や労力を、その変化のために費やすのでリスクも大きいです。にも拘らず、望んでもいない存在を目指すと苦しさ倍増です。確かに、英語力をアップさせる事は出来るかもしれません。でも、その苦痛が快感に変わる時が来るかと言うと、そうでもありません。