自然は最高の教師 〜私たちは生まれながらにすべてを持っています。〜

「川、山、石、植物は、いったい誰が作ったのでしょう」

今、私が居る仕事場を見渡すと、
そこにあるモノはすべて、誰かが作ったものです。

テーブル、椅子、スタンド、ソファと。
これらは誰かが頭の中で、どんなデザインで、どんな使い心地で、どんな質感で……と、あれこれ考えて作り出したものです。
ペンやクリップといった小さなものに至るまで、
この部屋の中にあるものすべては、誰かの意識から生まれています。
私の仕事場は誰かの考えで溢れています。

では、自然の中に身を置いた時はどうでしょう?
川、山、石、植物……と、あらゆるものが誰かが考えるとなしに、
そこに存在しています。
これらは誰かが作ったのでしょうか?

自然の中で足元の風に揺れる花を見るとき、
ではこの花は、いったいどうやって生まれたのでしょう?
見上げるほどの大きな木は?
そして岩に広がる苔は?
それらはどうやって生まれたのでしょう?

私の部屋にあったあらゆるモノのように、誰かの意識が作り出したものだとしたら、花や木や苔はどんな意識から生まれたのでしょう?

 

「自然界は純粋意識でできています」

この世界は「鏡」です。
この世界が、私たちの内側の意識が投影されたものと定義するなら、
自然界もまた、私たちの意識から生まれています。

「私」という存在は、表面には個人的な「私が」という意識がありますが、
その奥深くには「ただある私」が内在しています。
「ただある私」は、あらゆる命とつながり、あらゆる命の根底にある純粋な意識です。
それは源と呼ばれる意識で、神とも呼ばれます。

自然の中に身を置くと、安らかな気持ちになります。
圧力のない状態であり、心の体も解き放たれます。
自然界は純粋意識でできているからです。
私たちが自然の中に身を置くとき、私たちは純粋な私に抱かれるのです。
自然界は私たちの命の奥に息づく純粋意識の現れです。
私の部屋にあったあらゆるものはマインドが作り出したものですが、
自然界はマインドの介在なしに生まれたものです。

 

「自然界に見る動きには、科学も物理学もすべてが描かれながら、
それらを超えています。」

自然は最高の教師です。
どれだけの数の葉を身につけた木であっても、
その葉の1枚に、この世界の法則を見ることができます。
マインドは、このたった1枚の葉を作り出すことはできません。
自然界はマインドの奥深くにある純粋意識から生まれているからです。

季節が巡り、あらゆる自然の変化の中に、あらゆる自然の色の中に、あらゆる自然の形の中に、生きる上での大切な事柄がたくさん描かれています。
自然界に見る動きには、科学も物理学もすべてが描かれながら、それらを超えています。

 

「「ただ在る私」につながる方法が瞑想です。
瞑想は、「私」を超えて、全体性からこの世界を見る方法です。」

松ぼっくりが抱えるたくさんの種のたった一粒を手のひらに乗せるとき、
風で簡単に吹き飛ぶような小さな粒の中にも、命の情報が刻まれています。
その小さな種は大地の中で眠りにつきますが、
季節の変化を知り、世の中の時を知って、ふさわしい時に目覚めます。
1cmにも満たない小さな粒が、
大地に根を張り、空からこの地球のすみずみを眺めて落ちた雨を吸い上げながら地球のことを学び、風に運ばれた近隣の情報を受け取りながら成長します。
誰かに教わることなく、太陽の光を食料にする方法を知っていて、
いつしか巨木に成長します。
自然界は情報の宝庫です。
小さな種は、あらゆる知識を得ながら成長します。

私たちの内側に内在している純粋意識とは、生命エネルギーと呼ぶこともできます。

生命エネルギーによって種に内在していた情報が開かれて、いつしかその姿をはっきりと形にしていきます。
私たち人間も、最初の1つの細胞の中に内在していた情報が開かれて、「個の私」を開いていきます。

私たちの内面にはこうした純粋意識が広がっています。
「私が」という自我を現す生き方もできるし、
「ただ在る私」という純粋意識から、私を現す生き方もできるのです。
私たちは生まれながらにすべてを持っています。

「ただ在る私」につながる方法が瞑想です。
瞑想は、「私」を超えて、全体性からこの世界を見る方法です。
私たちは生まれながらにすべてを持っています。

 

 

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