「喜び、嬉しさ、楽しさ、感謝を放つなら、
幸せなキャッチボールが始まります。」
私たちは毎日の生活の中で、友人にキツイことを言われたり、信頼していた人に裏切られたりなどとショックを受けた時など、ふと気がつくと、そのことを頭の中で繰り返し繰り返し、思い出しながら再体験をしてしまいます。
自分がどれほど痛かったのかを、相手の行動や言葉を思い出して、繰り返し痛みを体験し続けることがあります。その痛みも体験も、嫌で嫌でしかたがないにも関わらず、気がつくと繰り返してしまうことがあります。
幾度もその場面を頭の中で繰り返しながら、意識の中で再現しながら味わうことをしてしまいます。
痛みの記憶は、分かりやすくはっきりとした感覚があるので、再現しやすいのです。もう思い出したくない! 忘れたい! と思いながらも、その痛みをしっかり覚えているので、繰り返してしまいます。
それに対して、わくわくした、嬉しかった、楽しかったという記憶を、私たちは何度も何度も繰り返し味わっているでしょうか?
おそらく、痛みの記憶の10分の1も味わってないのではないかと思います。
今日は本当にツイていた。ラッキーだった! そんな嬉しい感覚を、その後幾度も幾度も、翌日になっても、思い出して、ああ嬉しいと味わっていますか? なのに、友達の言葉で傷ついた! という悔しさは、その日、翌日、その次の日も、1週間後もひと月後も、思い出して味わってはいませんか?
この世界は、すべて自分の意識でできています。
そして、たったひとつの宇宙のルール、自分が与えるものが自分の受け取るもの。自分が発する波動でできています。
現れたものは、鏡として、自分の中にあったものを見ています。ですが、それは古い古い記憶です。魂に刻まれているものは、過去につかんだ重いエネルギーです。
本当の私とは、肉体と魂の奥に在る純粋な意識であり、慈悲、無条件の愛そのものです。本当の私から現れる波動は、わくわく、嬉しい、楽しいといった軽やかな波動です。
本当の私になるために、私たちは生きています。
人生という、物質的に見える世界に、過去の古いエネルギーを解き放つことで、純粋な本来の私に戻ろうとしています。
過去のエネルギーが投影されて、さまざまな出来事が起きますが、出来事が起きた時は、古いエネルギーが解き放たれて終わった瞬間です。終わったものに対して、嫌だなあとまたつかんでしまうと、持った以上、また手放す時がきます。
つまり同じような出来事を体験することになります。これが痛みの記憶のキャッチボールです。
痛みの記憶は、わかりやすい確かな触覚があります。でも、もうそれは要らないものだと感じるなら、手放していきます。
手放すということは、内側から現れる痛みの記憶やそれに対する感情をあるがままに認めることです。
認めることは、好きになるということではなく、ポジティブに捉えることでもなく、ただ自分はこれに対してこのように感じているということを、まさにあるがままに認めることです。
自分が放った波動を、自分が受け取ります。
嫌だなぁと放てば、嫌だなぁが帰ってきます。
あるがままに認めるとき、嫌だなぁは放ちません。
あるがままに認めるとは、無条件の愛と言えます。
池の中心に石を投げ入れると波紋は池に広がり、岸にたどり着くと、今度は石が投げ入れられた中心に波は戻ってきます。戻った波紋に対して、嫌だと押し返すと、波はまた岸に向かって動きだし、岸辺からまた中心に戻ってきます。
さらに、嫌だと押し返せば押し返すほど繰り返されます。ところがその波を、自分が押し返した波なのだと、あるがままに受け入れると、波は収まり消えていきます。
痛みの記憶はすでに過去に終わったものです。
思い出すたびに嫌な思いを発信して、自分が発信した嫌な思いを受け取っています。過去の痛みのエネルギーを、繰り返し味わうことをしていると気づいたときが、終わらせることができるチャンスです。
痛みの記憶を、自分自身で壁にぶつけながら1人キャッチボールをしていることに気づいたら、もっと楽しいキャッチボールに変えることもできます。毎日の慌ただしさの中に埋れている、小さな幸せ、ラッキー、感謝をもっともっと味わいます。いかに今日がツイていたか、探し出すとたくさんあることに気づくと思います。そうしたところに意識を向けていきます。
嫌なところに向けていた意識を、ハッピーに向けるだけです。嫌なこともまた、探せばいくらでもありますが、フォーカスするのはそちらではなく、ラッキーの方です。
喜び、嬉しさ、楽しさ、感謝を放つなら、幸せなキャッチボールが始まります。