≪「ささやき」に耳を貸すことで ≫
そうした、「ささやき」に耳を貸すという一種のコミュニケーションを繰り返していくうちに、人生そのものの脈動を感じられるようになります。
必然という糸によってつながれた、ひととひととの関係性。
そこを通してしかあじわえないぬくもりと喜び。
それを充分に感じて自分を表現できるところが、その人の居るべき場所であり、受け取るべき「天職」なのだと思います。
誰かに勝ることを考えたり(人と比べて落ち込むということは、勝っていたいという欲求があることを示しています)、特別視されることを望んでいたりするうちは「天職」に出逢えないのだと述べてきた理由は、こういうことなのです。
“calling”に応じる気がないのに――その「呼びかけ」の内容に従って生きていくことを拒絶しておいて――「天職」というその「呼びかけ」の為さんとする形(結果)を知れるわけがありません。
≪ すべてのひとと心の手をつなぐ ≫
こころとこころが真に通い合っている関係性を築いていきたいということを、言語化できない子どもにも「ささやき」がやって来るのですから、大人になったわたしたちにも、それは絶えずもたらされていたはずなのです。
人の口を借り、本を通して、あるいは目の前の、非常に受け入れがたい誰かさんとの衝突をも介して――。
わたしたちが真に願っていることが何であったかを思いだすことができるように。
“calling”とは、一人勝ちするための術を示すものではなく、すべてのひとと心の手をつなぐための道を照らすもの。
だから「呼びかけ」に応じるというのは、就職することでも起業することでもないということ。
職を持っていなくても、「天職」を与えられている人がたくさんいるということです。
怖れて逃げるよりも、訝しんで拒絶するよりも、心をひらいて、それこそわたしたちの「本意」であった“calling”に、心からYesと答えたいものです。
どんなに入念に組まれた人生設計よりも、それははるかに美しいビジョンなのだから――。