末吉愛の「あなた本来の輝きを呼び覚ます ワクワク☆ミラクル自己実現メソッド」PART.31 ~“calling”にYesを~

天職とは“calling”のことであり、「呼びかけ」に応じる形で受け取るもの、つまり「与えられるもの」です。何に素直になればいいのか, この「呼びかけ」に対してYesと答えるという、ただそれだけのことです。

 

≪“calling”にYesを ≫

ここ数回のコラムでは、才能や天職の話、矛盾を観察することについて述べてきましたが、本当に自分がしたいこと、心から願っていることというのは、とても純粋なものなので、素直になればなるほど物事はスムーズに進んでいくものです。

自分自身のなかに矛盾がなくなれば、才能を発揮するようになり、必然的に天職に出逢うようになっています。
天職とは“calling”のことであり、「呼びかけ」に応じる形で受け取るもの、つまり「与えられるもの」です。

大事なことは、それは「特別な人」に用意されるものではないということです。
誰でもその“calling”を耳にする機会を、必ず与えられることになります(ある意味で、すでに与えられたはずです)が、それに耳を貸さないという選択をする自由もまた、与えられています。

“calling”というのは、強制的な命令のことではなく、いわばひとつの機会であり、いずれにしてもわたしたちが必ず快諾することになる唯一の道、選択肢のことだと思っています。

何に素直になればいいのかと言えば、要するに、この「呼びかけ」に対してYesと答えるという、ただそれだけのことなのです。

 

≪「呼びかけ」はみな同じ ≫

「呼びかけ」られるのが「特別な人」でないのと同様に、その「呼びかけ」の内容もまた「特別な」ことではありません。
エゴはスペシャルなことが大好きで、他の誰にも与えられていない天命をわたしこそ受け取るのだという、非常にばかげた夢をみたがる一つの傾向がありますが、そのようなことは決してありません。

“calling”の内容は、本質的に誰に対してもまったく同じものです。特別な使命というものがないということを、まず受け入れなければならないでしょう。
それはむろん、愛に根差しています。わたしたちの知る由のない領域での「愛」です。

「わたし」と「あなた」に違いなどないということ、分離などしていないということを感じ合い、その輝きの放たれる光景をともに目撃することを望むなら、“calling”にまさに応じたことになります。

トリニティ第31回コラム用写真①

どのような職に就くかなどまったく重要なことではないし、どのような仕事をしようとその「呼びかけ」は何度でもやって来て、応じるならばどんなにすさんだ(ように見える)職場であろうと、輝きに満ちた場所になっていくのです。

 

≪“calling”の片鱗たち ≫

「呼びかけ」はなにも大仰なことではありません。ごく自然に、日常のそこここに満ちて、わたしたちを温かく包み込んでいます。

自分の才能を発揮していく方法も、天職に出逢ってのびのびとそれを行っていく秘訣もみな、その片鱗たちが教えてくれますから、わたしたちが何かを故意にやる必要などまったくありません。

“calling”の片鱗は、「直感」などを通してもたらされます。
分離がどうとか、ワンネスがどうの、二元論がどうこうということを全く知らない子どもにも、“calling”の片鱗はやって来ます。そういう意味で、“calling”というのが「スピリチュアル」かどうかという点など、さして重要ではありません。

その「ささやき」は、たとえば子どもに、「今日は体操服のハーフパンツも持っていくように」と告げてきます。長ジャージを持っていくのだから要らないんじゃないのと頭の片隅で思いながらも、「小さな呼びかけ」には応じたほうがいいことをその子どもは経験上知っていたので従うことにしました。
するとその日、友人が体操服を忘れたことを知り、持ってきていたハーフパンツを貸すという流れになり、心地よい時間をわかち合うことができたのです。

片鱗たちはわたしたちに、何か特別な体験をさせたがっているわけではないし、まして大仰にそれを神聖化したいわけでもありません。
子どもたちのあいだにも愛の片鱗はやって来て、その温かさと安らぎを体験させてくれます。