わたしたちの「本意」とは
古語では「本意」を「ほい」と読み、「本来の意志や目的、かねてからの望み」という意味を持ちますが、わたしたちが本当にしなければならないのは、世間一般的な意味で言うところの「自分探し」ではなくて、「本意」への旅をすることなのではないかと思います。
比較を基にして答えを出そうとする「自分探し」をしたところで、比較の土台となるものたちはすべて変化してゆくものなのだから、答えが定まるはずがないのだし、わたしたちはそのような答えを真に望んでいるわけではないのです。
わたしたちの、本来の意志は何だったのでしょう。かねてからの望みとは、いったいどのようなことだったのでしょうか。
確かに、「これは自分じゃない」のです。
確かに、「こんなはずじゃない」のです。これが自分と思っている自分は、“真の自分”ではありません。これまでこれが自分なのだと勘違いしてきた自分は、身体を持った、他者との差異を見る幻想の生き物、言わばエゴ(自我)です。
「自分探し」を何度やっても、見つけられるのはせいぜいこのエゴの影であって、「本当の自分」を探しているようでいて、それは単なる代替物でしかありません。
新しく資格を取ったり、転職をしたりして「本当の自分」を見つけた気がしても、それはまぎれもなく錯覚なのです。やがてまた、「これは自分じゃない」と思う時がやって来ます。
何か勉強することや資格を取ること、転職することがだめなのだとは言っていません。それらによって「旅」が終わることはないということを述べています。自分が誰かということを、思い誤ったままだからです。
“真の自分”を思いだすことが、わたしたちの「本意」です。
それは「自分探し」と真逆の方向をたどる旅だと言えます。なぜなら“真の自分”とは、誰とのあいだにも分離を見ないことによって感じられる“スピリット”であって、身体ではないからです。
「本意」が叶うのに、形は重要ではありません。“真の自分”とは、清らかなこころそのもの、愛そのものである“わたしたち”なのであって、どのような職に就いていようと、あるいは無職であろうと、一つである“わたしたち”の輝きが放てない場所(思いだせないところ)などありません。
どこにいても、誰と一緒でも、何をしていようと、そこには確かに、清らかでうつくしいものがあります。「思いやり」という姿で、愛そのものである“わたしたち”の輝きを見ることができるときもあるでしょう。
「本意」に還るならば、どのような夢も叶うし、本当に好きなことをしながら生きていけます。
「形」を追う前に、「本意」に還ることが先なのだということを、忘れずにいたいものです。