娘の小葉が5月に2歳の誕生日を迎えました。
今年は母の日と娘の誕生日が重なり、妻の寛子にとっても感慨深い日になったようです。
もちろん、夫の僕にとっても情けなくも愛しい日々を振り返る機会になりました。
妻の実家に集まり、皆でお祝いをしました。
お義母さんが張り切ってお誕生日ケーキを焼いてくれて、各人が小葉の幸せを祈ってくれました。
ろうそくを吹き消そうとする小葉をカメラで捉えながら心がざわつき出すのを感じました。
それは、とても幸せな光景に感動する気持ち、そして、また、ある思いが頭をよぎりました。
娘の小葉は無条件に僕を愛してくれます。
妻の寛子も同じく、寛容さを持って、信頼してくれます。
彼女たちがいなければ、僕は愛を求めてさまよっていたかもしれません。
そのふたりと家族でいられることに、感謝の気持ちと全く違う感覚が襲ってくるのでした。
その幸せな光景の中に僕はいてもいのだろうか? という思いです。
人生にはたくさんの祝福があります。
しかし、それに自分自身が相応しいかと思えるかどうかで人生は変わっていきます。
僕はその幸せな家族の一員に相応しいと思えない自分もいるのでした。
つまり、人生が見せてくれる祝福から遠ざかろうとするわけです。
自分自身の中で綱引きが始まります。
「このような幸せを享受するために、おまえは対価を差し出しているかい?」
と自分を責めるような声。
「このような幸せが続くはずがないよ。いつかは破綻する。」
と未来を信頼する勇気を投げ出し、不幸を選択する弱気な声。
「大丈夫! もっと自分らしく生きれば、さらに人生の祝福は滝のようにやってくるよ!」
と無責任で楽観的な声。
「本当は君じゃなければ、もっとみんな幸せなのに……と周りは思っているよ。」
と、猜疑心を煽り、自信を失くさせるような声。
……と自分の中で皆が
「いかに自分が正しいか?」を討論しているようでした。
子育ては日々、自分の感情と対峙することになります。
自分にこのような感情があったのか? とあらためて自分を知る機会にもなります。
先日の小葉の2歳の誕生日では、あらたな自分の感情を発見したわけです。
人生の祝福を「自分に相応しい」と思えるかどうかであれこれ感じるのはとても苦しいものです。
ひょっとしたら、人によっては痛みすら感じるかもしれません。
不幸を我慢したり、人のために犠牲になったり、損な役回りをして苦笑している自分のほうがはるかに想像に難くないわけです。
無条件で愛そうと寄り添ってくる子どもの存在は、今までの世界を一変させる力があります。
しかし、そのために、彼らのあるがままの姿を、生まれ持つ霊性を、思考を、感情を、なるべく阻害しないようにする必要は親にあるかもしれません。
最近は「毒親」などという言葉もあるようです。
子をコントロールしたり、または過度に無関心だったり、という子どもにとって毒のような親のことを言うようです。
それは癒されていない感情を親自身が持ち、セルフイメージが低いこと、心理的充足感を得ていないことが要因であろうと感じます。
自分のそうした内面の痛みと向き合うくらいなら、外界をコントロールするほうが簡単であるかのように思うのかもしれません。
僕の中で行われた綱引きも、娘の無条件の愛情の前に落ち着きました。
そして、娘のあるがままの姿を受け容れれば受け容れるほど、彼女が本当に無条件に僕を愛そうとして生まれてきたことに気づきます。
僕が無条件に自分自身を愛そうとする前に、すでに娘の小葉は僕を無条件に愛してしまっているのです。
多くのセラピー体験を通して、自己受容がとても進んでいたように思いましたが、子育てを通してもたらされる自己受容の機会はさらに深みのあるものになっていくようです。