お迎えのなかった私は地獄に行く寸前で生き返った?
死後に「眩しい光が近づいてくるのが見えた」というものが圧倒的多数を占めるようだが、私が心肺停止した時にはそんなものは現れなかった。
自分が見なかったからといって他人の報告を嘘だと断じるつもりはないが、それなら何故私は何も見なかったんだろうかと考え込んでしまう。
もしも死後の世界があるとして、彼らの見た光は天国からのお迎えなのだとしたら、お迎えのなかった私は地獄に行く寸前で生き返った、ということなのか。
それならそれで、ちらりとでもいいから地獄の風景を見たかったものだ。
そしたら今頃はすっかり心を入れ替えて慈善事業に打ち込んでたかもしれないしね。
もしも私を善人に改心させたければ、あの時が絶好のチャンスだったのに、どうして私は地獄すら見なかったのだろう。
臨死体験で人々が目撃するものは、脳が機能停止する直前に見る夢ではないか、と私は考えている。
では何故多くの人が似たような夢を見るのか、と問われるかもしれないが、そもそも夢なんてものは類型的なものだと思うのだ。
夢を個性的にしているのは各自の経験から来るストーリーの個別性であり、基本的なイメージや使われるシンボルはたぶん似たようなものだ。
死ぬ直前の脳はストーリーを作る力がもはやないため、シンプルなシンボルだけが現れる。
それが「光」だったりするわけだ。
私が何も見なかったのは、私の脳が夢を見なかったからだ。
あるいは、見たけど忘れてしまったからだ。
夢ってすぐ忘れちゃうでしょ。
したがって「臨死体験」は、死後の世界を証明するものではないと私は考える。
同様に、私が何も見なかったからといって、それが死後の世界を否定する根拠にもならない。
それは夢だから、何の根拠にもならないのだ。
<死後の世界はあるのか、死んでも魂は残るのか、という問題に、我々は答を見出せない。
あると思いたい人は信じればいいし、ないと思いたい人は信じなくていい、というのが私の目下の見解だ。
私は信じていなかったので、何も見なかったのかもしれない。
人は結局のところ、自分の見たい物しか見ないからだ。
霊についても、私の考えは同じである。
霊が実在するかどうかなんて、どんなに考えたって正解には辿り着けない。
私は霊を見たことがないけど、だからといって「実在しない」と断言する根拠にはならないと思うし、「見た」とか「見える」という人がいてもそれを鵜呑みにする気にもならない。
要するに、信じたい者だけが信じればいいのだ。
信じることには、きっと意味があるのだろうから。
本人にとって意味があれば、それでいいではないか。
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