神々の履歴書 番外編 「引き寄せの法則」と「神様にお願いする方法」はどう違うの? 下

癒しフェア2017東京では、マユリの「婚活&転職―豊かさを引き寄せる秘訣をマスター」 にご来場ありがとうございました。「引き寄せの法則で幸せを引き寄せるのと、神様にお願いして願いをかなえてもらうのはどう違うの?」という質問を複数の方からいただいたので、お答えさせております。

本当に願いが叶うの?

そういうと、なんだかオドロドロしい神様のように聞こえるかもしれませんが、それは結構ポピュラーな神様で、そこかしこに祀られています。

では、なんで人々はそんな物騒な神様に、いろいろなお願いをするのでしょうか?

この神様については、「いったん祈願したら途中で祈願を辞めたら祟る」とか、「たいへん気の荒い神様なので、丁重に扱わなければならない」とか「霊験あらたかな高僧以外は関わっては危険」とか、とにかく大変なお方だという話が巷にあふれています。

にもかかわらず、なんで、霊験あらたかでもない普通の人々が、そんなリスクを冒してまで、お願いするのでしょうか?

最大の理由は、大変効力がある、つまり願いが叶うからです。

 

霊験あらたかな神様

ちょっと興味深いお話を紹介しましょう。神々の履歴書を読まれた方から、伺った話です。

その方のお知り合いが、家の立て替えやらなんやらで物入りだったので、ある神様に「お金が入ってくるように」お願いしたとのことでした。

すると、まずは、実家のお父様が、自転車が転んで骨折され、それがもとで亡くなられ、それから、その方のご主人が急な病気で急逝したのです。4月にお父様がなくなり、5月にご主人が亡くなったとのことでした。

もちろん、偶然かもしれません。「お父様はご高齢で、そういうこともあるかもしれないけど、ご主人は、ついこないだまではお元気だったので、あまりに急速な病状の悪化に驚いた」とのことでした。特に、「ご主人のお葬式の日が、建て替えた家の竣工式の日だったので、なんだか不気味で……」と、お話されていたのです。

その後、ご主人様の生命保険が入り、お父様の遺産分与もあり、確かにかなりのまとまったお金が手にはいったのです。お知り合いの方は、「お礼参りにいく」と言われていたとのことで、ぞっとした……と話されていました。

今その方は、きれいに建て替えられた家に、住まわれています。もちろん、決して身内の不幸を願ったわけではなく、結果としてそうなったのですが……

願ったことに関しては、そう、見事なまでに叶ったのです! 家を建て替えるとなると、数千万単位のお金が必要です。一般人にとって、そんな大金、宝くじでも当てない限りそうそう手に入るものではありません。そういう意味で、不可能を可能にするような、奇跡的な叶い方でした。

単なる偶然かもしれません。そして、失った代償も大きかったかもしれません。しかし、とにかく、怖いくらいに叶っているのです。

この神様は、「よく叶う神様」として、「商売人の神様」として、あちこちによく祀られています。奇跡のように叶うので、起業家にとっては大変魅力的な神様なのでしょうか。一代で財を築いたり、大出世した人の中には、この神様に願を立てた人も結構いるのかもしれませんね。彼らはどんな見返りを払ったのでしょうか……

 

呪詛神としての性格—戦国時代の神様

この神様が商売繁盛の神様として庶民に祀られるようになったのは、江戸時代以降からです。では、それ以前、戦国時代はどうしていたのでしょうか。

戦国時代に、この神様の有名なエピソードがあります。毛利元就と尼子晴久の呪詛合戦です。当時の戦に呪詛はつきもので、信玄も謙信も戦に勝利するためには、領内の寺社を総動員して、敵を呪詛しました。呪詛というと、平安貴族のイメージですが、呪殺がもっとも需要があったのは戦国時代です。

島根の尼子氏は、出雲大社、大山大権現など総動員して毛利調伏の呪詛を行います。対する、広島の毛利は、厳島大明神に、藁で作った尼子晴久の人形をたて、茶枳尼法と聖天法で呪詛します。結果、尼子晴久は場内で急逝、元就の嫡男毛利家当主毛利隆元も急逝し、相打ち状態になったといわれています。

え? 厳島大明神? て思われるかもしれません。当時はまだ神仏習合の時代だったので、神社で社僧が護摩壇を焚くのは普通のことです。源頼朝も、江之島弁財天に義経呪詛を祈願しています。現代の平和な江之島からは、想像がつかないかもしれません。

当時、毛利が祈った神様は、一柱は「祈願すると、この世の富と権力がすぐに手に入るかわりに、願いの成就と引き換えに、死後に我が身の肉を捧げなければならない」といわれていました。(この神様は、人間の死肉が好物なのです。平清盛が天下取りの願をかけたのもこの神様です。)もう一柱の神様は、「祈ると様々な障害を取り除き、富と福を得るかわりに、七代後までの子孫の福徳をつかってしまう」と言われていました。

少なくとも、戦国時代の人々は、そういうものだと認識していたのです。