とにかくQOL(人生の質)を最優先して!~妥協が悪いわけではないけれど~

QOLというのは自分さえ良ければ良いというわけではありません。

クラス替えや部活によって、関わる人間関係も大きく変わって来ます。
いつまでも同じメンバーでずっと一緒ということはないということを学びます。
または部活に入らないという選択肢をした人はまた違った道に進みます。
善悪や正誤の問題ではありません。

そういうことを学べないのであれば、QOLに良い影響などまるでありませんので学校の存在理由が怪しくなって来ます。
最終的に卒業後に役立つ何かを得られなければ学校には価値は無いのです。
履歴書に自分の経歴を書くだけです。

不登校に関しても同様です。
学校に行かないから悪なのではありません。
学校に行かないと社会不適応というわけではありません。
学校という存在を通して「どうも学校という場所に馴染めない人は学校では無い選択肢が必要のようだ」という気付きや学びが必要なのです。
もちろん、本人が本当は学校が好きで通学したいというのであれば、そのための知恵や行動を学んで実践する必要があります。

ただ、どういうプロセスを辿るにしても、QOLが著しく下がってしまったり、心身が病んでしまうほど辛かったり不向きだったりしたら、世間がどう言おうと、その人にとっては、それは望ましい道では無いのかもしれません。
正解はマークシートで選ぶものではないので、ひとそれぞれ違うものです。

もちろん運も大きく影響します。
ただ運は自分で少しはコントロール出来るということも覚えておいて欲しいところです。

たとえば、イジメが暗黙ルールで許されている学校に入ってしまったとしましょう。
イジメる側に入ったらマシかもしれませんが(ダメです!)、イジメられる側になったら最悪です。
でも「無理して学校に行かなくても良いよ」とか「関わる人間は極力自分で決めるようにしなよ」というと「何を言ってるんですか! 人は人によって磨かれるんです! イヤな事があったら、その度に、逃げる癖がついたら何の成長も無いでしょう! その局面をどう乗り越えるかが重要なんですよ! 甘ったれたことを言わないで下さい!」と目の欠陥を充血させながら怒髪天を衝く勢いで反論する人もいると思います。

一理ありますので全否定するつもりはありません。
ただ、そう言っていられない状況だったらどうするのかと思うのです。
もちろん最初から逃げの姿勢だと困りますが、友達や親、先生に相談する等、少なからず知恵を絞って行動しているはずです。それが出来ないような状態だとしたら、さらに危機的な状況なのだと思います。
救いの手が何処からも伸びて来ない訳ですから。

そうするとQOLはどんどん低下して行くのです。
QOLを上げるために学校という存在があるのに関わらず。
最悪、心身を病んでしまうか命を失う場合もあると思います。
「それは、当人のコミュニケーション能力や根性が足りなかったからだ。
悔しかったら努力をもっとすべきだったのだ!」と言ったところで、何の意味もありません。
少なくともその生徒にとってのQOLを高めるための学びはそういうことではないのです。

教育的サポートとして大事なことがあるとすれば、残りの人生の質をどうやって向上させるかを寄り添って、そっと支えてあげる事です。
結果的にQOLがあがれば、そのプロセスでは無駄では無くなるかもしれません。

「○○のせいで私の人生は最悪になってしまった……」と結論付けてしまわないように。
そして「どうにかして自分のQOLをもっと向上させよう!」と思わせることが教育の本質だと私は思うのです。
そしてそのQOLは人によって感じ方も評価基準も違うのです。
通知表では決して評価することができません。