人生には鍛錬がつきもの
自己実現をテーマに取り上げ、これまでさまざまな点から述べてきましたが、今回は「練習すること」に関して書いてみたいと思います。
こういう自分になっていきたいという、理想とする生き方がある場合、それを実現させるためには、それが何であれ、「鍛錬」しなければなりません。
理想と呼ぶからには、すべからく、今の自分の現状とのギャップを埋めなければならないわけです。
スポーツにしても、絵や音楽といったクリエイティブなこと、カウンセリングや何かの資格を取るにしろ、「身につける」ということから離れることはできません。
何かに、誰かになろうとすることを人生の目的としなくても、純粋にただ精神性を高めていくことにしたって、心の訓練をしないでは到達できないようになっています。
何を目指すにしても、「鍛錬」はわたしたちについてまわるものだと言えます。たとえ何も目指さない生き方を選んだとしても、これはどうやら避けて通れません。なぜなら人生そのものが、「鍛錬」することだからです。
ところがわたしたちは、どうもこれを好んではいないようです。「鍛錬」することを自分で選んでおきながら、できることならやりたくないとどこかで思っています。
やるべきことをやらずに、さぼってしまうというのは、誰もが経験したことがあるでしょう。めんどうくさい、ちょっと今日は体調がよくない、練習がしんどい、他にやることがあるから、云々。言い訳はいくらだって思いついてしまいます。
なぜ理想に近づいていくための道のりを、つねに喜びを感じながら歩んでいけないのでしょうか。
等身大と真の価値
改めてこの、磨いていくこと、練習、訓練していくことについて考えてみると、「練習する」とはつまり、「できていない部分を浮き彫りにすること」だと言えます。当然です。理想と現状とのギャップを明確にしなければ、それを埋めることはできないのですから。
何ができていて、何ができていないのかを明らかにし、今できていない部分をできるレベルに持っていく。これをひたすら繰り返すことが「鍛錬」なのであって、等身大を正確に見ていなければ、「やってるつもりの練習」しかできません。
練習すること、積み重ねていくことが嫌になるのは、等身大を直視していないからであり、つまるところ、自分を買い被りすぎているか、自虐的になるのが好きかのどちらかだと言えます。妙なプライドを持っていたところで、できていないという現状に打ちのめされるだけですし、自己否定的にしか自分を見られないなら、練習は一種の拷問にしかなりません。
できていない部分を浮き彫りにすることは、できていない部分がある自分を責める行いではないのです。
言ってしまえば、何ができていて、何ができていないかなどということは、どうでもよいことです。それはわたしたちの、人としての価値を決めるものにはけっしてなりません。そういう意味では、本当に、できていようがいまいが、どっちだっていいことなのです。
等身大というのはあくまでも、肉体を持った「わたし」の性質、力量、傾向、状態を示したものにすぎず、スピリットとしての「わたし」、本当の自己のことではありません。
だから、何の資格を持っていようが、何に秀でた才能を持っているか、練習にどれだけ積極的か、どれだけ進歩したかなどということは、真の価値について言うなら、何の影響も与えないことばかりです。
その上で、その肉体を持った「わたし」が、ゆだねる生き方、人生をまるごと差しだす、使っていただく生き方を選ぶなかで、やっていくように示されたこと――魂から自分がやりたいと願っていたこと、真に喜びを感じられる活動――において、ただ感謝し、喜びを感じて「鍛錬」していけばいいのです。
肉体レベルでの「わたし」と、本当の「わたし」(=真に価値のある、愛に満ちたわたしたち)を混同せずに、ただ自分自身を愛のために使っていただく、その表現のしかたが身につくように、日々練習していくこと。
そのことに思いを向けているならば、練習から逃げだしたくなることは、きっとなくなることでしょう。なぜなら、そこには、しずかな喜びと安堵が広がっているからです。
鍛錬を丹念に、感謝の思いとともに行っていきたいものです。