「百聞は一見にしかず」だけど、目に力を与えない在り方をしよう!

私たちは人を見るとき、自分の中の誰かのイメージや、過去に抱いたイメージを重ね合わせて、その人を判断しようとしていますが、本当に正しいのでしょうか?

見るということは、はっきりとした情報です

私たちは、毎日たくさんの情報が交差する中で暮らしています。
人から何かを伝えられた時、「それはどのくらいの大きさ?」とか、
「それであなたはどう感じたの?」とか。
聞いた情報をもとに想像をして、内側で視覚化をしていきます。
たくさんの情報を受け取って、細かくイメージを作り出していきますが、情報が多くても、イメージはやはりはっきりとはしません。

ところが、100を聞いたとしても、やはり、ひとめ見た時の情報にはかないません。
見るというのは、はっきりとした情報です。

 

見るということは、ほんとうに正しいものなのでしょうか?

ところがこの見るという行為、私たちはあまりにも見ることに重きを置き過ぎています。

自分が今見ているものに対して、あるがままに見るのではなく、
過去の誰かの投影、過去の出来事の投影、ニュースで見た映像や、過去の体験での投影などなど、さまざまな過去のデータを同時に重ねることをしています。

 

今見ているものに対して、今、感じるままにみるのではなく、
今ではなく、過去を投影してみています。

例えば、初めて会う人が目の前にいるとき、
この人はこんな服を着ているけれど、以前の職場の苦手な先輩がこんな感じの服装をよくしていたな。この人も口うるさいかもしれないとか。

高価な宝石やブランド物を身につけているから、権威のある人かも知れないからとついかしこまってしまったり。

反対に、着古した体操着のようなものを着ているから、生活が苦しくて困っている人かもしれないと、蔑んだ目で見てしまったり。
自分には手が出ない、憧れている物を持っているから、人生で成功している人に違いないとねたみを感じたり。

人を見るとき、自分の中の誰かのイメージや、過去に抱いたイメージを重ね合わせて、その人を判断しようとしていますが、その見方は、本当にその人を見ているのでしょうか?

見るということは、ほんとうに正しいものなのでしょうか?

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見ることを超えた感覚とは

少し前に、とても面白い体験をしました。
30名ちょっと集まったワークショップでのこと。
隣り合った人とペアになり、どちらかがアイマスクをつけて立ち上がり、アイマスクをしていない方と手をつなぎ、ぶつからないように誘導して歩くというもの。

私が先にアイマスクをつけました。隣の方とは初対面です。
すると、歩こうにも足が前に出ない。

手をつないだこの隣の方が信用できないわけではないけれど、知らない場所を見えないままあるくことが、自分の中で怖さを感じていました。

何が怖いのか?

ころんでも室内ですからケガをすることはないだろうし、ぶつかっても室内の壁です。それに、そうならないようにパートナーはちゃんと見てくれているはずです。

「あ、歩けない。進みたくない。」

そう思ったときに、「そうだ! 私は五感の中の視覚だけを使って、今ここを体験しようとしていたのだ。視覚が閉ざされたために困ってしまっただけで、よしっ他の感覚を使おう」と試してみました。

耳、鼻、身体の内側と外側に感じる気とに意識を向けて広げていくと、内なる感覚が浮上してきました。

どの辺りに壁があるのか、どのあたりを他の人たちが歩いているのか、ホール内のすべての存在と動きが感じられてきました。

もう、足はすいすい前に出て早く歩けます。
目が見えない方々は、この感覚を使っているのですね。

私たちは、目が見えるために、この感覚を使うことを忘れてしまっていたことを思い出しました。

見ることを超えた感覚とはこのことです。