筆名と本名のあいだ③~姓名判断から近代の文豪を解剖する 森 鷗外(1862~1922)篇

権力の高み、芸術の高みを常に目指した鷗外は、同時に“人間性”の高みをも追求した人物でもありました。だからこそ、彼は自らの臨終にあたって一切の栄誉と称号を排し、ただ一個の日本人、“森林太郎”として墓に眠ることを選んだのです。

一方、本名『森林太郎』は人格20、外格30、地格26、総画38で、総画以外は全て大凶です(『郎』の字はつくりの“おおざと”の語源が「邑」「ユウ」、意味は、「むら、さと、人が沢山集まるところ」で7画、よって14画)。そして注目すべきは、「森」が12画、「林」が8画、「太」が4画、「郎」が14画で氏名を構成する画数がすべて“陰”(=偶数)。姓名学上のバランスとして、氏名を構成する画数が全て陰、或いは全て陽(=奇数)のような名前は、人生に波乱が多く、心が休まらない大凶相型とされています(例を挙げると、最近ホストへの恐喝容疑で逮捕されたタレントの坂口杏里、まさに波乱万丈の人生を送った漫才師の故・横山やすしも姓名が全て“陽=奇数”)。鷗外は離婚と再婚を経験していますが、前妻・後妻ともに鷗外の実母との嫁姑問題があったと伝えられています。大正五年(1916)に発表した『阿部一族』で描かれた殉死を巡る“意地”の描写は、家の中にあって終わりを見ない戦争を繰り返す母と妻の姿を、作品のモチーフにした感があります。家庭運・恋愛運を支配する地格の凶意に悩まされた“森林太郎”でしたが、それを“森鷗外”という別人格が見事に芸術へと昇華させたと言えましょう。

 

近所の子供の心ない言葉にショックを受ける、軍人らしからぬ繊細な一面

鷗外は軍人・森林太郎と作家・森鷗外の別を厳密にしていました。軍人としては46歳で陸軍軍医総監という最高位まで駆け上がりますが、これには私淑した貴族院議員・西周や歌会を通じて交流があった元老・山県有朋による助力が大きかったというのが定説です。人格、外格ともに“0”の自己中心的、孤立の凶意がありますが、この数字には一方で目上、上司に対しては人当たりが良いという二面性、多重人格の要素もあります。11歳で東大医学部に入学した才気を持ち、傲岸不遜が伝えられる林太郎でしたが、それは権力や地位を人一倍欲している裏返しでもありました。しかし一方で、娘との散歩中に「中将が歩いているぞ」と近所の子供達が駆け寄ってきた際、鷗外を見つめていた子供のひとりが襟の深緑色(医官章)を見つけ「なんだ軍医かよ」と言われたことに、ひどくショックを受けたというエピソードも残っています。自分の努力してきたことが正当に評価されなかったときの精神的苦痛は、“0系数”(10,20,30,40=水泡に帰す)を持つ者にとっては筆舌に尽くし難いものであったと推察されます。

(画像提供・ウィキペディア)

 

人間性の高みへ—女性の社会活動にも理解を示した、“器”そして喜び多き晩年

強力な後ろ盾を得て軍人としても頂点を極めた林太郎は、“鷗外”としても『雁』『青年』『興津弥五右衛門の遺書』『高瀬舟』『山椒大夫』と、現代にもその名を残す名著を数多く世に放ちます(木下杢太郎の言うところの、いわゆる“豊熟の時代”)。明治44年(1911)に発表した『雁』では、貧窮のうちに育ち高利貸しの妾となったお玉が、大学生の岡田へ思慕の情を募らせるも、結局は結ばれずに終わる哀しみを描いていますが、作中には上野の不忍池付近の“無縁坂”が頻繁に登場します。妾として生きるお玉と大学生の岡田の“縁”の薄さが、お玉の慕情の切なさに重なっているのです。“上り詰めた”鷗外でしたが、軍人でありながら当時としては女性の社会活動に理解があり、与謝野晶子や平塚らいてうを高く評価していました。医学と文学という、まったく別の世界でそれぞれ頂点に上った彼は圭角がとれ、男女貴賎問わず良い交流を得るようになっていたのです。その人間性の裾野の広さが、男性でありながら女性の機微を丹念に描く能力に、更に彩りを添えたと言えます。姓名判断の総画は50歳以降を支配しますが、五十の坂を越え、林太郎、鷗外の名ともに漸く“凶”の暗示から逃れた、満ち足りた晩年であったと言えましょう。

権力の高み、芸術の高みを常に目指した鷗外は、同時に“人間性”の高みをも追求した人物でもありました。だからこそ、彼は自らの臨終にあたって一切の栄誉と称号を排し、ただ一個の日本人、“森林太郎”として墓に眠ることを選んだのです。
何物にも縛られない、真の自己確立。男女平等の現代社会で、より良い人生を模索されている『TRINITY』読者の皆様にとっても、この60年の人生で鷗外が、珠玉の作品群と共に示した問い掛けは、大きいと言えるのではないでしょうか。(了)

 

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