【こどもの日は邪気払いの日だった】
もうじき、「こどもの日」です。こちらは、別名「端午の節句」と呼ばれています。「節句」は「奇数が重なった日」に行われることが多いものです。奇数は「陽の数」であり、陽気が重なることから、逆に陰気が引き寄せられるとして、節句には「季節毎に邪気払い」が行われていました。
【時代と共に移り変わる端午の節句】
端午の節句は、別名「菖蒲の節句」とも言われています。現在でも湯船に菖蒲を入れますが、これは元々、「菖蒲の強い香りで邪気を祓う」という意味合いがあったのです。この菖蒲が持つ邪気払いの力は、「平安時代以前から信じられているほど古いもの」です。
ちなみに、そもそもの端午の節句は、文字通り月の「端(はじめ)」の「午」の日に行われていた行事だったのですが、「午(ご)」と「五」の音が通じることで毎月5日に行われるようになり、その後、節句と結びつき「5月5日」に行われるようになりました。
当初は邪気払いがメインだった行事ですが、時代がうつりかわり「武士が天下を取った」ことで意味合いが変わってきました。祓いのアイテムであった「菖蒲」が「尚武」や「勝負」に繋がるとして、「立身出世のために縁起がいい日」となり、さらには、現代と同じように、家長となる「男の子の成長を祈念する日」へと変わったわけです。
【こどもの日につきものの、柏餅とちまき】
そんなこどもの日に必須なお菓子があります。関東では「柏餅」、関西では「ちまき」です。これらは、ただのお菓子のように思えるかもしれませんが、実はどちらにも「スピリチュアルな意味合い」が込められているのです。
【神へと繋がり子孫を守護する柏餅】
まずは、柏餅ですが、こちらは関東で食べられるものです。前述したようにこどもの日は、武家社会と深く関わっていますので、柏餅のポイントである「柏の葉」、そしてそれを産み出す「柏の木の特性」が武士に好まれました。なぜなら、柏の木は新芽がでないと古い葉が落ちないことから「子供が産まれるまで親が死なない」と考えられていたからなのです。武家社会では、家を継ぐ子孫を作ることがとても重要視されたので、柏の葉は「子孫繁栄の象徴」として尊ばれたのです。
また、単なる子孫繁栄の象徴だけでなく、そもそも柏の木は「神聖」なものでした。古い時代には「神様へと捧げる食べ物の器」として「柏の葉」が使われていたのです。また、神社で神様へと挨拶をするときに「柏手」を打つのも、柏の木と関係しているともされています。このように「神と繋がり、なおかつ家を継いでくれる子孫を守ってくれる」という意味合いで、武家社会の中心であった関東では柏餅が食べられるようになりました。
【龍すら祓う強い力を持ったちまき】
一方、関西でこどもの日に食べられる「ちまき」は、「古来の端午の節句と関係が深い」ものです。こちらは中国由来であり、謀略によって失脚してしまった「屈原(くつげん)」という人物が、国の行く末に失望し川に身を投げてしまいました。人望があったために、このことを知った人々が、「遺体が魚に食べられないよう」に、「笹の葉でお米を包んだもの」を川に投げ入れたのが、ちまきの起源といわれています。この笹の葉というのは、一説であり、「茅(ちがや)」だという説もあります。
魚に食べさせるならば、そのままのお米を投げ込んだ方が合理的なように思えるかもしれませんが、お米をそのまま投げ込むと、「水の底に届く前に龍が食べてしまう」ので、龍が苦手とする葉で包み、さらに、邪気を祓う5色の糸で縛って、龍の邪魔を防いでいたわけです。実際問題で考えると、魚に遺体が食べられるのも、龍の邪魔も後付けの伝説であり、基本的には供養のために考えられたものなのでしょう。
本来は供養のために使われていたちまきですが、「邪気祓いの伝説と端午の節句に行われる邪気払いが組み合わさり、災い除けとして食べられる」ようになりました。前述したように本来はお米でしたが、時代と共に改良が行われていき、お米がお餅へとかわり、さらにその中に餡子を包みこんだりしていくうちに、現在のような和菓子になったのです関西地方は、端午の節句が邪気払いとして行われていた時代に都だった地域ですので、武士社会とは異なった、「古い伝統に近いちまき」が好まれるのです。
このように、地域差がはっきりとわかれているものの、どちらもスピリチュアルな由来をもっているお菓子ですので、ご自身が求めるものにあわせて、お子さんに食べて貰うことをオススメします。