ココロセラピストが語る!『幸せの責任』とは?

「幸せ」を決定しているのは自己なのか、他者なのか?

幸せの原点は自己と他者の関係!

世の中は人間関係で成り立っています。幸せになるのも、不幸になるのも、自分がいて、自分以外の誰かがいるから成り立つ関係です。

人間を超越した存在ならば、もしかしたらこの世に誰もいなくても、何もなくても幸せを感じられるかもしれませんが、それは俗世間とはあまり関係がないのでここでは考え無いことにします。

たとえば、僕のこの記事をあなたが読んでくれている。これは幸せな事です。頑張って執筆して良かったなと思います。僕がどんなに熱く何かを語ろうと、誰にも相手にして貰えなかったら、それこそ何の意味もありません。だから、この関係性は僕にとってはとても大切なものなのです。この記事を読んでくれているあなたに、心から感謝します。

幸せも不幸も最終的に決定するのは自分?

不幸について考えてみたいと思います。不幸はいたるところに存在します。一般的に「幸せも不幸も自分の心が決めている。自分自身が創り出している」と言われています。確かに、その通りですが、ここで忘れてはならない事があります。幸せや不幸を最終的に決定するのは自分かもしれません。しかし、自分以外の人を幸せに導いたり不幸に導いたりするきっかけを創りだしたり、影響を与えたりすることもできるということです。これは意図的であったとしても、無意識であっても同じ事が言えます。自分の存在は少なからず誰かに何らかの影響力を与えているのです。これを知らないで安易に「自分を不幸って言っている人はその人の責任だよ!」とは言い切れない側面もあるのです。

幸せのすべての責任を自己責任として良いのか?

イジメの問題を考えればイメージしやすいかもしれません。「イジメられる方にも原因はあるんだよ!」という考え方があります。正論ではありますが、極論過ぎる気もします。「うわぁ!私、イジメられてる。こんなレアな体験、幸せ!」と思う人は、いないと思います。

たとえば、自分がイライラしていたら、何の罪も無い家族や友達、部下や同僚に酷い仕打ちをしてしまうことはありませんか。それは非常に残酷な事であり、迷惑極まりない話です。たまたまイライラしている人に遭遇してしまったことで不当な扱いを受けた被害者は、どんな気持ちになるでしょうか。『ドM』のタイプは例外として、普通に考えたら、それこそ不幸です。

意味もわからなく、突然怒鳴りつけられたり、アゲアシを取られたりしているのに関わらず幸せの責任を自己責任にされてと言われて「嗚呼、これを不幸と考えている私がおかしいんだ!」と思う人はまずいないと思います。「これは、きっと試練だ!試練を乗り越えたら、その先には成長した自分が待っている!幸せだ!」と毎回毎回思えるでしょうか。

一方でイライラしているという理由だけで罪無き誰かに理不尽な仕打ちをしてしまった側の人は「嗚呼、スッキリした!私、幸せ!」と思うのでしょうか。そのような解釈をする人もいるかもしれませんが、心にスッキリしないモヤモヤとしたわだかまりのような気持ちが残るのではないでしょうか。もし、そのようなタイプの人であれば嫌われて誰からも相手にされなくなるか、恨みを買って報復される可能性も出て来ます。そういう事をまったく気にしない人なら幸せと思えるかもしれませんが、それは極少数のタイプであり、多くの人は罪悪感や後悔の念に捕らわれると思います。

受け入れたくない事かもしれませんが、人間には残酷な側面や理不尽な言動を取ってしまう事も多々あるのです。自分がどんなに注意をしていようとも、自分が注意する事で確実に防げるというものでも無いのです。これが関係性なのです。

そう考えると、必ずしも「不幸」の解釈も「自分が不幸と思わなければ不幸では無い」という理屈だけで世の中を渡って行けるわけではないということがわかってくると思います。

これを知らないと、自分自身が撒き散らした迷惑の種に対して、無責任になってしまいます。自分自身は何とも思わなくても不幸の種は確実に芽を出し、成長し、増殖して行くのだという事も知っていた方が良いのです。

世の中には理不尽な事が多々あります。もしくは自分の考える正義と相手の考える正義が異なり、その結果争いに発展し不幸になってしまう場合もあるかもしれません。自分の思い通りに行けば自分自身は確かに幸せかもしれませんが、その裏には、その影響で不幸になってしまった人もいるかもしれないのです。「その人が勝手に自分を不幸だと決めつけているだけで、私には関係ないわ!」と言い切れない事もあるのです。

不幸を回避する方法を考える!

僕は決して、世の中は不幸で満ちあふれているから一緒に嘆こうと言っているわけではありません。僕たちは無限に幸せを追究して良いのです。そして、不幸がこの世からゼロになる事が可能かどうかは別問題としても、幸せも不幸も創りだしたり影響を与えたりする事が出来るのだとしたら、それを最大限に活かそうではないかと主張しているのです。

そのためには、まず世の中には自分自身とは違った価値観の人間もいるということを徹底して頭に叩きこむ事です。

自分と違う意見の人がいたら、確かに混乱します。受け入れられる事と受け入れられない事もあると思います。

しかし、瞬間湯沸かし器のように自分と少しでも異なるタイプの人間を敵と認識し、人格を否定し、攻撃対象とする発想は今すぐ捨てた方が良いです。

冷静に相手の想いや考えを理解しようとする事が大切です。もしかしたら、自分が正しいかもしれませんし、相手が正しいかもしれません。どちらかが、何らかの勘違いや思い違いをしている場合もあるかもしれません。酔っ払っていて思考力が低下しているのかもしれません。

僕たちは、ついつい話が通じない相手と遭遇すると、不快な表情になったり、睨みつけたり、口調が荒くなったり、作り笑いを浮かべて自分のペースに誘導しようとしたり、自分本位になってしまいがちですが、それは最後の手段です。「歩み寄ろうと努力している」と恩着せがましく考えている時点で、幸せは逃げてしまうのです。危機的状況で緊急性を要する事ではない限り、自分が本当に冷静か。相手の真意は何なのかを知ろうとする事が大切です。残念ながら、現代人は時間に追われすぎていて、このもっとも大切なプロセスを省略し過ぎている気がします。

本能的に自分の心身に危害を加えていることを感じたのであれば、攻撃する前に逃げた方が賢明だと言えるでしょう。変に刺激を与えて逆恨みをされてしまうと、それこそ不幸になってしまうからです。

幸せや不幸が人間関係によって大きく影響を受けるのだと理解できたら、お互いに対し、双方が幸せと感じる、あるいは、必要以上の不幸を生み出さないようにするかを意識し、実践することが大切なのです。