末吉愛の「あなた本来の輝きを呼び覚ます ワクワク☆ミラクル自己実現メソッド」 PART.18 ~時間を捧げる~

自分の時間、人のための時間

「自己実現」において重要なのは、その土台となる「目的」であり、人から高く評価されること、親に認めてもらうこと、あるいは誰かに勝つことや、自分を嗤った人たちを見返すことを目的とするならば、それは「利己的自己実現」であるがために真の幸福は得られず、
人々に奉仕すること、自分の人生を使っていただくことによって自他ともに喜びを分かち合えることを土台とするならば、それは「利他的自己実現」であり、多くの奇跡を体験することができる、といったことをこれまでの記事の中で述べさせていただきました。

真に価値のある使い方をしていただくために、進んで天に人生を明け渡す。ゆだねる生き方。
それを選ぶと、多くのガイダンスによってさまざまなことがうまくいくようになります。信じられないような奇跡や、しずかな喜びを何度も体験し、心から感謝する日々が、誇張ではなく実際によくあるのです。

ただ、ここでの「うまくいく」というのは、自分の思い通りになるという意味ではありません。自分が「こうであってほしい」、「こうであるべきだ」と考えていることは、勝手な「都合」であって、何が真に最善なのかを自分で判断すること、理解することはできないものです。
もし、「ゆだねると決めたのに、こんな目に遭うなんて」と不満を持つのなら、それは自分の望んでいることの土台が「エゴ」によるものだからです。

本当に“使っていただく人生”を選んだのであれば、ほんの一瞬たりとも不満など生まれてはこない。幾度も不平不満を抱いた後にわたしの気づいたことはこれでした。

いくら「利他的」であろうとするにしても、自分の時間がなくなるのは困る。身体だって疲れるし、自分のことも大事にしないと何もできない。これ以上、人のことばかりやっていられない。

不満なことの一つとして、以前はこんなふうに思ったことが何度となくありました。けれども真に「利他的」であるならば、「自分の時間」と「人のための時間」というものは存在するはずがないのだし、時間が奪われるということや、時間を犠牲にするなどということは、あり得ないことなのです。

 

経過する時間、いまという時間

時間に関する評論で、内山節氏の『自由論』にこのような箇所があります。

「私たちは時間を経過するものとして捉えている。だから、若い人や子どもたちは、未来の時間を持っているように思い、老人たちは過去の経過した時間を過ごしてきたと考える。もちろん、それも誤りではない。だがそれは、時間を経過するものとして考える時にのみ妥当なことにすぎないのである。
ところが私たちには、もう一つの時間がある。いまを生きているという時間である。いまという時間は経過しない。常に、いま、ここに、存在し続けている。
(中略)

今日私たちが、毎日時間に追われ、時間の自由を失っていると感じている時間とは、それとは別のものである。ここでは経過する時間が問題になり、過ぎ去ってしまうから、その時間に追いかけられる。
そしてこの経過する時間の自由を得ようとして、人々は時間を配分する自由を問題にする。時間の使い方を他者に管理され、自由に時間を配分できない時、私たちは時間の自由を奪われていると感じる。…(略)…
このように考えてみれば、時間の自由には、二つのものがあるのではなかろうか。自在に時間を配分する自由、もう一つは、失われることのない、いまという時間を自在につくりだす自由である。

(中略)

私たちはこれまで、時間とは何かを考えずに暮らしてきたような気がする。あるいは、時間とは、時計が刻み続けるものだと思い込んできた。それは現代社会が、時計の時間を基準にして成立しているからであろう。

だか、時間とは、もっと自由なものなのではないだろうか。人間は時間の中に存在している。人間の日々の営みの中に、時間もまた存在している。とすれば、人間が時間とどんな関係を取り結ぶのかによって、時間の性格もまた変わっていくのではなかろうか。」

 

時間を、時計が刻み続けるものだと認識し、配分するものなのだと捉えるなら、時間というものは、失われたり、奪われたり、やむを得ず犠牲にしたりすることがあるとしか思えないかもしれません。
けれども配分のしようがない、「いま」というその瞬間だけが存在するのなら、そしてその時間が、誰かと喜びを分かち合うために、お互いの本来の輝きを感じるために使われるのだとしたら、たとえそこで何が起きていようとも、祝福があるばかりで、感謝こそすれ不満を抱くなど、とうていあり得ないことだと思うのです。

もし「いまという時間を自在につくりだす自由」が与えられているのであれば、人々との分かち合いのために使いたいものです。何時からは自分の時間、何時からは人のための時間などという線引きは、肉体をこそ「自分」だと認め、分離の概念を煽るだけです。

「わたしの時間」と「あなたの時間」があるのではなく、「わたしたちの、かけがえのない一瞬」が、永遠なる時間が、いま、ここに、在る。

時間を捧げた時――時間に対する既成概念を捨てて「いま」に在ることのみを心から決めた時――、わたしたちは真の意味で自由になれるのではないか。そのように思います。

 

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