動かざるマリオ……「私」を中心に、世界が過ぎ去っていく」という真実

実はマリオは、いつでも真ん中に居る

何年か前、小学生だった息子がテレビゲームの「マリオカート」で遊んでいるのを、横目で眺めていました。
こうしたレースのゲーム画面って、誰でも見ていて気付くかと思いますが、プレーヤーの乗り物はずっと「画面の中央」にあるままですよね。「周りの景色」のほうがビュンビュンと後ろに過ぎ去っていくことで、プレーヤー自身が走行しているように見える、という作りです。

で、そのことを、ゲームに熱中している子供にちょっと説明してみようと思い、「このマリオって、動いているように見えるけど、実はずっと真ん中にいて、ぜんぜん動いてないよね」と語りかけてみました。すると子供は、大のおとなが何てトンチンカンなことを言うの? といった表情をこちらに向けて、「動いているよ、ほら、すごく速く走っているじゃない!」と言い張る。僕が「そんなことはない、よく見りゃわかるよ」と言っても、子供のほうはまるで要領を得ません。

そこで、記事の冒頭にある写真のような感じに、テレビ画面のマリオの上に、付箋をぺタッと貼ってやったのです。
マリオは、体を左右に傾けたりジャンプしたりするけれど、付箋が貼り付けられた位置からは微動だにしません。対戦者を何人も抜き去ろうが、バナナの皮でスピンしようが、爆弾に当たって破裂しようが、コースの外に転落しようが、実際はこれっぽっちも動かずに、同じ場所にずっととどまっています。

これを見て一目瞭然に分かった子供は、「あれっ、へぇぇーっ、そうだったのかー!」と、まるで隠されていた真理を目の当たりにしたくらい驚いた様子でした……。

ゲームの2次元映像でも、子供の目には、微動だにしていないキャラクターが「スピーディーに動き回っている」かのように、疑いなく見えてしまうのですよね。そしてゲームの最中は、カーブするときにキャラクターに合わせて自分も身体を傾けたり、敵キャラに邪魔をされたら「ちくしょー!」とくやしがったりするほど、映像世界にのめり込んでいます。

マリオを自分の人生に置き換えてみると……

ひるがえって、私たちが今いるこの世界のことを考えてみると――。
これも、周りに目に見えるものすべてが、実は「幻想」だといわれます。

しかも、任天堂のゲームどころではありません。見えるのは「超高精細な3次元映像」で、そこに「リアルな五感」が完璧にシンクロして、さらには「感情と思考」までが周りに合わせてわき起こってきて、心の中を埋め尽くします。

そうなると、もう真実を知覚する手がかりが皆無となり、幻想世界のなかに取り込まれるほか道がないでしょう。目の前に展開する「映像世界」に心底から没入していった結果、「本当の私」への自己認識は消滅してしまうわけです……。

スピリチュアルな教えが、「この世界は幻想であり、あなたがどこへ行こうとも、今いる位置から全く動いていないのですよ」などと説いても、そういうのは荒唐無稽な話にしか聞こえません。そして「目の前の現実こそがリアルな本物だ。無責任なことを言わないで!」と反論したくなります。それは、本当に無理からぬことなのです。

一方で、この世の中には、突然に「自分が宇宙全体とひとつである」といった真実を認識してしまう、いわゆる「一瞥」と呼ばれる体験が存在します。これはある意味で、本当の私のことが分かるように「付箋を貼ってもらう」ような出来事といえるかもしれません。

でもそうした特別な体験というのは、その人の「人為」ではなく、まさしく「恩寵」のなせるわざでしょう。たとえは非常に悪いのですが、その性質は「死」と同じようなもので、来る時になれば来るのであって、本人の望みでやって来るものではない、といえるのかもしれないです。

でも私たちが真実に立脚して生きたいと思うとき、自らの「人為」としてできることは、静かに立ち止まって「私が在る」という感覚にとどまることでしょう。よくいわれる通り、「私が在る」という感覚こそが、私たちが普段から知覚できる、幻想とは違う唯一の真実です。

瞑想などでその感覚にとどまることは、一瞥ほどのインパクトはないにせよ、これも自らの手で「付箋を貼る」ことかもしれないです。そして日常生活では、その付箋の付いたところを意識しながら、色々な行為を行う。周りのあらゆることは、幻想だと認識しながら……。

そうしていると、何か人生の流れを変える出来事が起こるかもしれないし、一方で、現状のあり方が真の自分が選んだ道であるならば、何も変わらないかもしれない。でも、「自分はどうしようもない現実の中を生きていて、生活のためにはいやが応でも苦労しなければならない」といった従来の認識でいるよりかは、格段に救われるし、気持ちが楽になるし、選択肢や発想も柔軟になるし、そしてときには、新しい意識でいるだけでも十分幸せになれる。
これはまさに、「確約された成果」といえます。