末吉愛の「あなた本来の輝きを呼び覚ます ワクワク☆ミラクル自己実現メソッド」 PART.7 ~「ゆだねる」強さ ~

「ゆだねる」強さ

今年6月からスタートしたこの連載コラムですが、自己実現のために、相対的な意味における「自信」を持つことは不要で、持つべきは「確信」(自分は無限の能力を持っており、愛や幸福に値するのだと信じて疑わないこと)なのだと書きましたが、どうすればこの「確信」を持てるのかについて今回は深めてみたいと思います。

誰かと比べて能力的に優っているから「できる」と信じられる、優秀な成績を収めたから実現できると思える、というのは、実際には全く成立しない発想であり、絶対的に自分を信じて進んでいける、その「確信」の根拠は、この世界では見つけることができないのだと述べてきたわけですが(詳しくはコチラ)、その「確信」を持つためには、「ゆだねる」ことが欠かせません。

なぜなら、すべてを“流れ”に任せ、人生のかじ取りを天にゆだねて初めて、真に路頭に迷うことなどない、たしかに守られ、たしかに導かれているのだと感じられるからです。

さてこの「ゆだねる」。ここでは、自我(エゴ)による計画を立てない、という意味で使っています。無計画。それは以前のわたしには怖ろしくてできないことでした。

目標達成、夢の実現のコツを知っていれば、叶えるのは簡単です。逆算して何をすべきかリストアップし、いつまでにやるかを綿密に決めて行動していけば、よほどのことが起きない限り辿り着けます。何のために何をするのか、という観点を見失わず、常に首尾一貫した行動を起こせば実現するものです。

学生時代からそうやって自分を戒めながら修行か何かのように取り組んでいたので、叶えたかった「将来の夢」を実現させることができました。他にも、こうなりたいと思ったことはスムーズに叶えることができたのです。
これを「利己的自己実現」とわたしは呼んでいます。自分が叶えたいから叶える、というスタンスで達成して「いい気になっている」状態。

ところが、この「いい気」は長続きしません。実現したかったことを叶えてたしかに幸せを感じていましたが、「何かが違う」という感覚はずっと消えませんでした。
23歳の頃、「わたしは何か重要なことを忘れている気がする」と思うようになりました。
「好きなことを仕事にして生きていける人は少ないのよ、だからあなたは恵まれている」と周りに言われても、“最も重要な何か”を完全に忘れて自分勝手に生きている気がしてならなかったのです。

ある体験がきっかけで心理学を学ぶようになり、目には見えなくてもわたしたちの人生に大きく影響を与えている「こころ」について探究しながら、心理カウンセリングの知識を身に付け、スキルを習得していきました。
わたしにとっては、これが「利他的自己実現」のための契機となり、“最も重要な何か”へと少しずつ近づいていったのです。

その道を歩むのに、計画を立てることは「不可能」でした。“最も重要な何か”が、いったい何なのかわからないのに、逆算のしようがありません。何を目指し、何を達成すればいいのか、判断できないのです。
教師の仕事を突然の思いつきで辞め、心理カウンセリングの勉強のためにニューヨークへ赴いたり、流れるがままに生活したりしながら、「自分の人生はこれからどうなっていくんだろう」と、先の見えないことに、何かを目指すことができないことに大きな不安を抱いていたものです。

計画を立てずにいるだなんて、怠惰でしかないじゃない。そんなふうに思っていたので、自分で決められない状態にいることに耐えられませんでした。自分の人生の道筋は、自分で決めたい。決めたことは必ず達成できる。そう思っていたのです。
その頃のわたしには、「ゆだねる」強さがまるでなかったのでした。

不定と心得ぬるのみ

兼好法師の『徒然草』に、おもしろいことが書いてあります。

「かねてのあらまし、皆違ひゆくかと思ふに、おのづから違はぬ事もあれば、いよいよものは定めがたし。不定と心得ぬるのみ誠にて違はず。」

[あらかじめ予定していたことが、みなはずれてゆくかと思うけれども、まれにはずれないこともあるので、ますます物事は予定することが難しい。定まらないもの(不確かであてにならないもの)と悟ってしまうことだけが真実であって、間違いがない。]

いくら抜かりなく計画を立ててみたところで、そのようにならないことが多く、すべてが思い通り、期待通りというわけにはいかないものです。兼好法師は、日々そうだし、一年においても、一生においてもそうだと言っています。

偏った価値観で「常識」をもとにして、「体裁」を重視し、「プライド」を保持するために立てた自分のプランが「正しい」のだと信じて疑わないとき、わたしたちは“最も重要な何か”を完全に忘れて生きていると言えます。

自分で立てた計画には計算ミスがあるし、自分を不自由にこそすれ、真の幸福を感じられるようには組まれていません。
だから「不定」なのだし、予想外の展開によって「軌道修正」されてゆくのです。
人生を“流れ”に任せる。人生そのものを天に明け渡す。身に起きたことをそのまま受け入れる。そのほうがずっと幸福を味わっていられます。

「人生は自分で決めるのだ」と中学生の時分に強く誓ったわたしでしたが、それは大きな間違いであったと今ではしみじみ思えます。

「不定と心得ぬるのみ誠にて違はず」とは、わたしにとっては、人生の“流れ”を生み出せるのは「自分」ではないのだ――自分を本当の意味で幸福にできるのは自我(エゴ)の力では決してないのだ――という真実を受け入れることが賢明なのだ、という意味として心に響いてくるのです。

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